関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1793 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」1 関ヶ原合戦の従来の見方を否定

<<   作成日時 : 2016/12/12 14:45   >>

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 昨日、鳥居本地区公民館で行われた、滋賀県教育委員会文化財保護課の松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦 近江にとっての関ヶ原合戦」ですが、まず関ヶ原合戦に対する従来の見方が示されています。
 従来の見方とは、関ヶ原合戦は「秀吉死後の天下人の座をめぐる争い」で、「天下人を目指す徳川家康と、豊臣の天下を守ろうとする石田三成との争い」とするものだが、それは「信長→秀吉→家康とつづく天下人の流れを前提とした理解」で、「秀吉死後の歴史を家康の天下取りへの道と解釈」することであり、それはちょうど「本能寺の変後の歴史を秀吉の天下取りへの道と解釈する見方と共通する」ものだと指摘されていました。
 また「北政所VS淀殿」「武断派VS吏僚派」「連合政権構想VS中央集権構想」という対立軸があり、それが「徳川家康VS石田三成」の対立軸につながったとするのも従来の見方だと述べられていました。
 「これらは後の徳川政権成立を前提とし、関ヶ原合戦を豊臣VS徳川の視点で理解しようとしたもの」であるとして、従来の見方に否定的な見解が示されています。
 従来の対立軸については、北政所と淀殿は敵対したわけではなく、共に豊臣家を守ろうとしていたという最近の研究があること、また武断派は領地の行政などに能力を発揮し、反対に吏僚派も槍働きをしていることなとが指摘されていました。
 今、再読している司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)は、まさに従来の見方をもとにして描かれた作品だとつくづく思います。私が三成が出て来る小説で、最初に読んだのが、この「関ヶ原」であり、その当時は書かれていることがほとんど事実だと思い込んでいました。
 この小説では、北政所は三成を嫌い、加藤清正や福島正則、それに小早川秀秋に対して家康に味方するように勧めています。北政所=尾張出身を中心とする武断派=家康と、淀殿=近江出身を中心とする吏僚派=三成の対立という構図です。しかし、白川亨氏の一連の著書を読んで、こういう従来からの捉え方は間違いであり、北政所は三成の決起を支持していたという見解を知りました。最近の研究では、豊臣家存続のために北政所と淀殿が連携していたという跡部信氏などの指摘があります。
 松下氏の講演では触れられていませんでしたが、小説「関ヶ原」では、家康が会津攻めに向かうのは、三成の挙兵を促すためであり、この機会に反対勢力を一掃してしまうつもりだったという描き方がされています。しかし、それは徳川史観に基づいた見方であり、家康が天下を二分するほどの戦いに打って出るほどの冒険をするとは考えられず、有力大名を個別に撃破してゆく確実な方法をとったという見解が中井俊一郎氏などによって示されています。関ヶ原の戦いは想定外のことだったという見方です。

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