関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1794 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」2 関ヶ原合戦の対立軸の形成

<<   作成日時 : 2016/12/13 12:30   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 一昨日に行われた、松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦 近江にとっての関ヶ原合戦」の中で、関ヶ原合戦の対立軸の形成として、唐入りに際して、「朝鮮在陣諸将と国内強硬派との対立」があったこと、「前田利家死後の大老衆の主導権争い」があり、それは「徳川VS毛利・宇喜多・上杉」というものであったこと、「豊臣政権内の主導権争い」があり、「東軍・西軍ともに主力は豊臣系大名」であったことが挙げられ、それに関連して「関ヶ原合戦後も豊臣家は大坂で影響力を保持」していたこと、「関ヶ原合戦によって徳川家康の天下が決定したわけではない」ことが挙げられていました。
 「朝鮮在陣諸将と国内強硬派との対立」という点については、三成は「国内強硬派」として捉えられていましたが、このことについては、納得できないものを覚えました。三成は慶長の役の際は、確かに渡海していませんが、文禄の役の際は秀吉に代わって渡海し、戦いの悲惨な状況をまのあたりにして、戦争継続の不可能性を書状にして日本に送っています。その後の三成は明・朝鮮との和平交渉にあたっています。そういう三成の姿勢が、慶長の役の際、百八十度転換するでしょうか。慶長の役の際、奉行として渡海した者のうち、福原長堯、垣見一直、熊谷直盛は三成寄りの人物であり、在陣諸将たちが蔚山籠城戦の際、追撃しなかったり、戦線縮小を唱えたりしたことを奉行たちが秀吉に報告し、秀吉は在陣諸将たちを処分したため、その恨みが三成に向かいました。三成は在陣諸将の気持ちがよくわかっていたと思われますし、奉行たちの報告を握りつぶすこともできず、板挟みになっていたのではないでしょうか。それを「国内強硬派」と捉えることはおかしいと思いました。しかし、慶長の役が、豊臣政権内部の対立を生み出したというのは確かでしょうし、そこに三成の不幸があったと云えます。
 「関ヶ原合戦後も豊臣家は大坂で影響力を保持」していたこと、「関ヶ原合戦によって徳川家康の天下が決定したわけではない」ことに関しては、笠谷和比古氏が主張される二重公儀体制の問題が想起されます。これは家康が将軍に任官されてから、大坂の陣まで存在したとされるもので、この見解については、研究者によって疑義も唱えられています。もっとも、秀頼は政治的権力はなくとも、権威は持ち続けていたわけで、その点を家康は恐れたはずです。
 家康は関ヶ原合戦に勝ち、反対勢力を一掃したわけですが、豊臣家の大老という地位にとどまったままでしたから、豊臣政権とは別の、将軍になることによって幕府を開き、大名たちを統率するという形態を取らざるをえなかったと云えます。よく秀吉は卑賎な生まれだったから、幕府を開けず、そのために関白になるという道を選んだということがよく言われますが、これは徳川史観に基づくものであり、おかしな論理だという気がします。関白も本来卑賎な者ではなれない官職であり、そのために秀吉は近衛家の猶子になることによって、それを果たしました。家康も源氏の出ということを捏造し、将軍になりました。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1794 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」2 関ヶ原合戦の対立軸の形成 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる