関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1795 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」3 関ヶ原合戦の経緯1 

<<   作成日時 : 2016/12/14 21:38   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」の中で、関ヶ原の合戦の経緯について述べられていました。
 家康が会津攻めのため大坂を出陣したのが慶長5年6月16日、石田三成と大谷吉継挙兵の噂が広まり、奉行衆が徳川家康、毛利輝元に書状で報告し、鎮定を要請したのが7月12日、それを受けて輝元が大坂に入城したのが7月16日。翌17日に「内府ちがいの条々」が出され、ここに至って奉行衆も三成に加担し、西軍が結成されたと説明されていました。
 三成がこの時、大坂城に来ていたかの言及はありませんでしたが、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)では、「内府ちがいの条々」の文書を大坂城に持ってくるのは嶋左近として描かれています。誰が持ってきたのかは定かではありませんが、この時点で三成が来ていないのは確かなように思われます。翌18日には、三成は京都の豊国社に参拝しています。18日は秀吉の月命日であり、ここで亡き秀吉に家康を討つことを報告したのでしょう。三成は佐和山から豊国社に参拝したと考えられます。なお、小説「関ヶ原」では、細川ガラシアが大坂城に人質として入るのを拒み、自害して細川屋敷が炎上しますが、その燃え上がる火を大坂にやってきた三成が舟の上から見て、大坂城に入るという描き方がされています。細川ガラシアが自害したのは7月17日ですから、三成がそれを舟の上から見たというのは考えられません。
 西軍は7月19日に伏見城を包囲し、家康は25日に小山評定を開き、上方へ帰陣することを決定しましたが、この時、「内府ちがいの条々」はまだ届いていなかったと説明されていました。小山会議については、拙ブログでも触れたように、白峰旬氏によって否定的な見解が示されています。白峰氏の見解は、大田浩司氏の「『真田丸』を3倍楽しむ講座」でも取り上げられていました。
伏見城落城が8月1日、徳川家康が江戸に入城したのは8月5日、この時にはすでに「内府ちがいの条々」が届いていたと説明されていました。このことに関して、家康が「家康追討のための豊臣公儀による権力の発動」という上方の「事態の急展開を知ったのは29日のことであったといわれている」ことが、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)に記されています。
 三成が大垣に入城したのは8月11日。三成は若狭と伊勢を結ぶラインで防御しようとしており、そのために北国と伊勢に軍勢を派遣したと説明されていました。もっとも、この時点で三成は尾張と三河の国境あたりで決戦するという戦略を立てていることが、8月6日付真田昌幸宛書状によってわかりますし、この点については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章で記しました。しかし、「福島正則の居城である清洲城に東軍が入ったことによって、その戦略は変更を余儀なくされ、三成は大垣城と岐阜城を結ぶ線あたりで防御しようとした」ということも述べました。
 
  

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1795 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」3 関ヶ原合戦の経緯1  関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる