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zoom RSS 石田三成の実像1798  松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」6 秀吉の近江の拠点城郭

<<   作成日時 : 2016/12/17 10:45   >>

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 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」の中で、秀吉は天正13年(1585)の「小牧長久手合戦後の国割で織田色を排除し」、「秀吉子飼いの武将を近江国内の要所に配置」しますが、それは「徳川家康に対する抑え」のためであったと指摘されていました。
 天正18年、北条攻めの後、徳川は関東に移封されますが、「東山道・東海道筋に豊臣系大名を配置」し、「側近の奉行衆で近江を支配」しました。
 講演会では、豊臣政権の近江の拠点城郭について、城主の変遷が具体的にたどられていました。この講演の前日に訪ねたばかりの八幡山城は、羽柴秀次→京極高次→秀次事件で破却。
 大津城は浅野長吉→増田長盛→新庄直頼→京極高次。
 佐和山城は堀尾吉晴→石田三成。ただし、その間に三成が代官を務めた時期がありますが。
 水口岡山城は中村一氏→増田長盛→長束正家。よく三成が水口城主4万石だった時に、嶋左近を1万5千石ないし2万石で召し抱えたという逸話がありますが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)で指摘されているように、三成が水口城の城主になったという形跡はありません。
 長浜城は山内一豊→一豊の掛川移封により破却。
 また関ヶ原合戦後の近江の城郭についても述べられていました。
 大津城は解体されて、部材が彦根城へ移築されたこと、彦根城の天守は大津城の天守が使われたこと。この後の佐和山城の現地見学会の時に、下高大輔氏が大津城は5層の天守だったが、彦根城は3層の天守になったことについて、大津城籠城戦の際、天守は西軍が砲弾を大量に撃ち込んだため、使える部分が少なくなったという点があるのではないかと指摘されていました。
 佐和山城は破城になり、石垣などは彦根城へ移されたこと。今まで文献には彦根城の石垣は佐和山城の石垣が使われたと書かれているものの、それが確かめられないままでしたが、昨年3月になって鐘の丸や太鼓丸などの石垣に使われていることがわかりました。このことについての現地説明会があり、その時、私も参加しましたし、この報告はその時に拙ブログ記事で行いました。
 水口岡山城は破城になり(別の場所に水口城が作られました)、長浜城は再建されました。
 徳川氏の近江の拠点城郭として作られたのが、井伊直継の彦根城、戸田一西の膳所城であり、「大坂城の豊臣氏への最前線」であり、「豊臣包囲網の要」だったと説明されていました。
 この点について、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)には、「大坂包囲網の諸城」として、近江の上述の城に加えて、伊賀では伊賀上野城、丹波では亀山城、篠山城、伊勢では亀山城、桑名城が挙げられています。

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