関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1799 下高大輔氏による佐和山城跡の現地見学会1 西の丸の穴についての新解釈

<<   作成日時 : 2016/12/18 10:40   >>

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写真は佐和山の大手口を11日の現地見学会の時に撮ったものです。田畑に水がたまっていましたが、このあたりは湿地帯だったと説明されていました。前に聳え立っているのが三成の居城であった佐和山です。
 当日は彦根の鳥居本地区公民館での、滋賀県教育委員会文化財保護課の松下浩氏による講演会「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」を10時から1時間にわたって聴講した後、公民館で食事を取り、同文化財課の下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城跡、石田三成屋敷跡などをめぐる現地見学会に参加しましたが、盛りだくさんで4時間余りに及びました。
 佐和山城下町跡あたりは今まで何度か訪ねていますし、拙ブログ記事でも触れました。かつては佐和山の東側に城下町が広がり、繁栄していましたが、関ヶ原の戦いの後、井伊家が三成の居城であった佐和山城を壊し新たに彦根城を作り、彦根の城下町を形成するに及んで佐和山城下町もすっかり寂れ、今は田畑や民家があるだけです。
 まず外堀跡へ行き(外堀の内側【佐和山側】にかつては城下町が広がっていました)、その内側の、当時のメインストリートであった本町筋を進み、大手口に出ました。大手口のところには、土塁が残り、かつては大手門もあったはずです。かつてはここから佐和山まで登る登城道がありましたが、今はたどりにくくなっています。もっとも、2年前にオンライン三成会の人々と藪をかき分けてその道を登ったことがありますが。
 大手口から本町筋に戻り、北に進んで、内堀を渡り、侍屋敷があった谷のあたりを望み(遺構が発掘されましたが、今は埋め戻されています)、かもう坂往還切通から佐和山に登りました。ここは城の搦(から)め手(水の手)であり、かつて、関ヶ原の戦いの翌日、東軍の田中吉政が佐和山城に攻め上った道です。
 搦め手からは攻めやすいように見えるものの、上には曲輪(くるわ)があり、上からの攻撃を受けるたため、攻めにくいようになっていたとの下高氏の説明がありました。
 まず佐和山の西の丸まで登り、そこで発見された大きな穴のところでも、説明がありました。昨年の10月にこの遺構についての現地説明会があり、私も参加しましたが、塩などを貯蔵していた地下室ではないかという解釈が示されていました(拙ブログでも取り上げました)。しかし、下高氏による解釈はそれとは違い、風が強いため、櫓が倒れないように、深く掘って基盤を強くしたのではないかというものでした。西の丸は三段の曲輪になっていますが、穴が見つかったのは一番下の部分であり、塩櫓があったとされる場所です。
  

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