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zoom RSS 大河ドラマ探訪459 「真田丸」126太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回7 如何に九度山を脱出したか

<<   作成日時 : 2016/12/02 19:39   >>

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太田浩司氏の「『真田丸』を3倍楽しむ講座」第三回の中で、「真田信繁は如何にして九度山を脱出したか?」ということが取り上げられ、九度山の百姓に酒を飲ませ脱出したということが、「武林雑話」に記されていることが紹介されていました。 すなわち、真田信繁は「九度山辺橋本峠橋谷等の庄屋年寄を初百姓不残振廻せんと」、残らず九度山の宿所に呼び寄せて饗応し、酒を出して酔わせ、その間に馬に荷を付け、妻子を乗物に乗せ、上下百人ばかりの人数が、弓鉄砲前後に押し立て、「紀の川を渡り、橋本峠をさして」赴いたところ、百姓等は夜が明けて気づいた時には、誰もいなくなっており、後悔したなどと。
 こういう話について、橋場日月氏の「知れば知るほど面白い 人物歴史 丸ごとガイド 真田幸村」(学研)には、次のように批判されています。
 「皆を酔い潰して脱出したなどは、絵にもなるし、知将・幸村の面目躍如といったところだが、果たしてそういうことが可能なものだろうか。沢山の人間を集めれば、当然のことながらスパイの紛れ込む可能性も高くなり、防諜上はなはだ不安な状態となる。この場合は、やはりこっそりと脱出したしたというのが真相に近いのではないだろうか」と。
 「真田丸」でも、宴会を開いて皆に酒を飲ましている間に、信繁などが逃げ出す場面がドラマティックに描かれていましたが、私も橋場氏の見解のように、「こっそりと脱出した」のではないかと思っています。
 脱出ルートについては、橋場氏の同書で、「西の和歌山(浅野長晟)と東の五条(幕府方の松倉重政)を避けて、九度山からまっすぐ北に向かって紀見峠を越え、河内長野に出て大坂に入った」と指摘されています。
 また真田信繁が大坂に入城したことを聞いた家康の様子が「新編信濃史料叢書」の「幸村君伝記」に記載されていることも取り上げられていました。
 すなわち、その話を聞いた家康が「親か子か」と尋ね、手を懸けていた戸がかたかたと鳴るほど震えたが、昌幸は死んだので、子供の信繁の方だと答えたので、家康はほっとした息をつき安堵の色を見せたなどと。
 もっとも、講座では触れられていませんでしたが、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、家康がこういう反応をしたという逸話は、「後世の創作である」と指摘されています。
 もっとも、丸島氏の同書では、「信繁に関する知識には、幕閣の中でも温度差があった」と記され、京都所司代の板倉勝重からの報告に、「勝重が信繁の仮名を源三郎と誤り、またわざわざ関ヶ原で勘気を蒙って高野山に引きこもっていた人物と説明を書き添えていたから、どうも誰だかピンとこなかったらしい」とも述べられています。
 
 

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