関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1801 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」14 吉川広家は最初三成方

<<   作成日時 : 2016/12/21 10:10   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、慶長5年8月2日付で出された細川幽斎書状が史料として取り上げられていることは前述しましたが、「『秀頼様』の記載の上を一字分空けて闕字にしている」ことから、この時点では「秀頼が最高権力者として見なしている」として、「石田・毛利連合政権が秀頼を直接推戴して政権を運営していること」、「一方で、この時点では家康は世間の後見という立場にすぎない」と指摘されています。
 幽斎は田辺城に籠城したため、石田・毛利方は小野木公郷ら1万5千人が攻め、9月13日にようやく開城します。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、このことも西軍にとって大きな誤算だったと記しましたが、この点について、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)には、8月5日頃の「石田・毛利連合軍の諸将と動員人数」(『真田家文書』)の中で、「伊勢方面軍、美濃方面軍、北国方面軍、瀬田橋防衛軍、大坂城鎮守軍」に分けられ、「田辺城の包囲軍は落城が近いため、兵力人数を減らしていると考えられ、そのためこの五軍編成からは除外されているのであろう」と指摘されています。この史料の中で、小野木公郷らは「丹波七衆之頭」として、北国方面軍に組み込まれています(兵5000人)。こういうことからすると、三成方が田辺城を囲んでいたのは確かだとしても、関ヶ原の戦いに影響を及ぼすだけの兵力動員ではなかったのかもしれません。
 また白峰氏の同論考には、8月朔日付の下備後守他一名宛下二介書状が取り上げられています。下二介は吉川家の家臣であり、この中で、「毛利輝元が7月19日に大坂城へ入城して『天下之儀』をすべてとりしきっていると記され」、この時点では、「吉川広家(『殿様』)は家康に内通している気配はない」と指摘されています。
 よく吉川広家は、毛利家の中において安国寺恵瓊と仲が悪く、三成が恵瓊と結んだのに対して、広家は最初から家康の味方をしていたと捉えがちであり、司馬遼太郎氏の「関ヶ原」(新潮文庫)でもそのように描かれていますが、このあたりはもっと細かく広家の動きを見てゆく必要があります。
 同書状では、「家康方の軍勢が西上した際には、近江の瀬田において毛利輝元が一戦を命じる」ことが記され、このことは、伏見城落城後、「畿内制圧の次の段階として、西上予定の家康方軍勢と豊臣公儀の軍勢が軍事衝突することを見越して瀬田で普請をおこなったのであろう」と指摘されています。
 瀬田の重要性については、上述の「石田・毛利連合軍の諸将と動員人数」の五軍の中に、瀬田橋爪在番(瀬田橋防衛軍)が配置されていることでもわかります。もっとも、その時点での毛利輝元は伊勢方面軍に組み込まれており、すぐに家康が西上してくることがないのを見越して、伊勢口に配置したものと思われます。ただし、輝元自身は、ずっと大坂から離れることはありませんでしたが。

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