関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1804大河ドラマ探訪464 「真田丸」131「歴史人 真田幸村と大坂の陣」三成の記述

<<   作成日時 : 2016/12/25 10:51   >>

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 「歴史人 2017年1月号 真田幸村と大坂の陣」に、三成のことが少しだけ出て来ます。
 まず、江宮隆之氏の「幸村は、なぜ豊臣に殉じたのか?」の中で、「幸村と豊臣の絆を強めた3人の恩人」として、豊臣秀吉、大谷吉継、石田三成が取り上げられ、三成については次のように記されています。
 「秀吉の馬廻衆・近習衆として側近く仕えた幸村は、三成の人格骨柄に深く触れた。豊臣家のために戦い散ったその様は、幸村の生き方にも大きな影響を与えた」と。
 「真田丸」でも、信繁が吉継や三成の影響を受けていましたし、3人で協力して聚楽第落首事件をはじめとするいろいろな出来事を処理する場面が描かれていました。もっとも、三成の態度は尊大で、幸村や信幸に対しても変わらず、信繁は「人を不快にさせる何かを持っている」と三成のことを評していましたが、多大に江戸時代からの三成観が大きく影響を与えている気がしました。しかし、信繁は三成の熱い思いを知り、その思いを受け継ぐという展開になっていましたが。
 江宮氏の同書では、大坂の陣で信繁を大坂城に駆り立てた気持ちについて、「三成らに教わった『大義こそが武士の行動の拠り所である』という断固とした決意」だったと記されています。
 またその決意は、「負けると分かっていて戦いに向かう『悲壮な決意』などではなく、今度こそ家康の首を取るという『必勝の決意』で臨もうとした」とも指摘されています。
 「真田丸」でも、信繁は最後まであきらめず、必ず勝つと信じて戦っていましたし、夏の陣の天王寺の戦いでも途中までは押し気味に戦いを進めていました。この点について、渡邊大門氏の「大坂落城 戦国終焉の舞台」(角川選書)の中で、次のように記されています。
 「当時の記録を見ると、形勢的には拮抗していたことがわかり、逆に徳川方が押される場面もあった(『細川家記』など)。『綿考輯録』には、五分五分の戦いを展開していたが、徳川方の軍勢が多かったので勝利を得ることができた、と率直に記している。しかし、最後は衆寡敵せず、真田信繁、後藤基次ら有力な武将を相次いで失った豊臣方は、ついに敗北へと追い込まれるのであった。豊臣方は、数的有利に立つ徳川方に勝てなかったのである」と。
 圧倒的な数の力が最終的にものを言い、徳川方が勝ったというわけです。
 また「歴史人」の「進化する『関ヶ原』を訪ねる」の中で、「関ヶ原2016第3弾〜石田三成〜」のイベントが写真入りで紹介されています。「花いけバトル」、「鉄砲隊演武」、「山本耕史さんのトークイベント」、「武者行列」について写真入りで紹介されています。武者行列には、「1万人の観客」と記されていますが、それは少々オーバーかもしれないものの、すごい人出であったのは確かです。

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