関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大河ドラマ探訪466 「真田丸」133 九度山探訪1 高野口駅から徒歩・真田父子は高野山から九度山へ

<<   作成日時 : 2016/12/27 15:08   >>

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写真はJR高野口駅を昨日撮ったものです。関ヶ原の戦いの後、真田昌幸・信繁が蟄居させられていた九度山へ青春18切符を利用して行ってきましたが、すでにこの駅から真田
ド満開でした。
 まず京都の六地蔵駅から大阪駅に出て、家族に頼まれた買いものを済ませ、その後、再び大阪駅から、大和路線で奈良の王寺に出て、和歌山線に乗り換え高野口駅で降りて、紀の川を渡り九度山町まで20分余り歩きました。
 九度山へ行くのは、南海電車を利用するのが便利ですが、今まで南海電車で高野山に行くことはあっても、九度山駅で途中下車することはありませんでした。しかし、JRで行く方法もあることを知って、今回初めて足を運びました。京都、大阪、奈良、和歌山をまたぐ電車旅になりました。
 真田庵、真田古墳(真田の抜穴と云われているもの)、世界遺産の慈尊院、丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社などを回ってきましたが、平日であり、「真田丸」の放送も終わったのに、訪れる人々の姿を見かけました。
 昌幸・信繁たちが住んでいた屋敷は残っていませんが、その地に善名称院が建っています。境内には昌幸の墓、信繁が落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったとの言い伝えがある「雷封じの井」などがあり、真田地主大権現を祀るお社が建っていました。
 昌幸・信繁父子はまず慶長5年12月13日に高野山にのぼり、真田家の菩提寺である蓮華定院に入りました。その後、山麓の九度山で暮らします。九度山で暮らすことが許された点について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、「高野山は女人禁制だから、連れてきた女性はともに山上に赴くことができない。その点が考慮されたのだろうか。いずれにせよ、一般にイメージされているよりも、真田父子の扱いは悪いものではない」と指摘されています。
 確かにそうであっても、彼らは赦免をひたすら願っていましたし、九度山での生活は困窮を極めました(国元にお金を無心する手紙が残っていることについては、拙ブログで触れました)から、不遇のうちに過ごしたことには違いありませんでした。
 昌幸は慶長16年6月4日に九度山で亡くなります(享年65歳)し、信繁は慶長19年10月に大坂に入城するまで九度山で過ごしましたから、彼らが十数年不本意ながら過ごした場所だと思うと、胸に迫ってくるものがありました。
 もっとも、「真田丸」では、九度山で過ごした年数の割には、描かれた回数は少なく、九度山の人々はそれを残念がったという話を聞きますが、関ヶ原の戦いに至るまでに回が割かれたため、最大のクライマックスである大坂の陣を描くには、どうしても端折らざるを得なかったのでしょう。彼らの生活に変化が乏しかったということもあるでしょうが。

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