関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大河ドラマ探訪468 「真田丸」135 九度山探訪3 真田昌幸の墓・昌幸の生活・信繁の子女の異同

<<   作成日時 : 2016/12/29 18:24   >>

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 写真は九度山の真田庵にある真田昌幸の墓を撮ったものです。昌幸はここで、大坂の陣を見ることなく、失意のうちに亡くなりました。
 丸島和洋氏の「真田四代と信繫」(平凡社新書)には、九度山での昌幸について、「花押を武田時代のものに戻している。信玄の花押を模倣した花押を用いることで、往時を偲んでいたのかもしれない」ということ、「慶長8年3月には早くも本多正信を通じて赦免運動を展開し、その期待を兄の菩提寺信綱寺の住持に伝えている。しかし、昌幸の期待通りには進まなかった。本多正信からは音沙汰がなかったのである」ということ(「本多正信は昌幸を『公儀憚りの仁』と認識していた」ことも指摘されています)、「国許から支援があるとはいえ、あちこちに借金をして」おり、国元に金を無心していること、昌幸が亡くなった時にも、本多正信は「葬儀を行ってもよいか幕府に伺いをたてるよう、信之にアドバイスをしている」ことなどが記されています。
 「真田丸」では、三谷幸喜氏は昌幸を描きたかったと述べていましたが、前半の主人公は昌幸であり、知恵を働かせて弱小の国人としていかに生き残るか、その過程が丹念に描かれていました。
 さて、信繁の妻女ですが、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で描かれている内容を昨日付拙ブログ記事で紹介しましたが、その系図は「『左衛門佐君伝記稿』および真田六文会の調査成果等より作成」とあります。
 一方、「歴史人 真田幸村と大坂の陣」(KKベストセラーズ)の中の「『真田幸村』生存伝説の真相に迫る!」(監修・文 楠戸義昭氏)に掲載されている「真田幸村略系図」の出典は示されていませんから、どれだけ妥当性があるのかはわかりません。
 その「略系図」に記されている信繁の子の数は13人であり、それは丸島氏の同書の系図の子の数と一致しています。しかし、大谷吉継の娘との間にできた子は7人を数え、丸島氏の4人とは大きく異なっています。「歴史人」の「略系図」には、「あぐり」「阿梅」「女」も吉継の娘が生んだとされていますが、丸島氏の作成の系図には、「阿梅」と「おぐり」は高梨内記の娘の子と記されています。「歴史人」では、高梨内記の娘が生んだのは「於市」と記されていますが、丸島氏の系図では「於市」は、堀田作兵衛興重の娘として記載されています。「歴史人」の系図では「堀田作兵衛興重女」とあり、妹とは記載されていません。「堀田作兵衛興重女」との間の子は「菊」と記されていますが、「菊」という名は何かの史料に出てくるのでしょうか。「歴史人」には、側室として「某女」が二人記され、その間に「辣」と「之親」の名が記されています。「辣」という名は丸島氏の系図には出て来ませんが、これも出典があるのでしょうか。

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