関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1785 琵琶湖一周のろし駅伝 参加者全員で「えいえいおー」・手作り弁当をいただく

<<   作成日時 : 2016/12/03 11:07   >>

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写真は11月23日、佐和山で琵琶湖一周のろし駅伝ののろしが上がった時に撮ったものです。のろし駅伝は今年で15回を数え、今年は33箇所の中世城跡をのろしでつなぎました。近江八幡の瓶割山から10時にスタートし、時計回りに次々とのろしが上げられ(むろん、隣の山にのろしが上がったのを目で確認した上でですが)、佐和山にのろしが上がったのは11時半過ぎでした。参加者全員で「えいえいおー」と叫びました。
 それにしても関係者の準備や必要機材を山頂に持ち運ぶことは大変だといつも思いますし、頭が下がります。甲冑を着て登山する人も同じです。石田三成に扮している人は大河ドラマですっかりお馴染みになった天衝甲冑(最初は「葵 徳川三代」だったと記憶しています)であり、陣羽織には「大一大万大吉」の旗印、「下り藤に石」の家紋が付いていました。
 イベント終了後、のろし駅伝の立役者のお一人である田附清子さんから、手作り弁当のおすそ分けに預かりましたが、山頂で食べながら、参加者と三成談義、大河ドラマ談義をするのも楽しいものがありました。三成の旗印について、左側に「大万」、右側に「大吉」にあるデザインは正しくなく、本来逆であるはずだ、というのも昔の人は右側から読んでいたはずだからという意見を述べる人もいて、なるほどと思いました。
佐和山に登ったのが10時半過ぎであり、のろし駅伝まで時間があったので、太鼓丸口、千貫井、女郎谷、2個だけ残る石垣などを回ってきました。千貫井は水をたたえていましたが、女郎谷の木碑は朽ちてしまったのか、なくなっていました。
女郎谷は佐和山落城の際、石田方の多くの女性たちが敵に捕らわれるのを拒んで、谷に身を投げたとされている谷ですが、太田浩司氏の「近江が生んだ知将」では、そういう事実はなかったと否定的に捉えられています。
 山頂の紅葉は鮮やかでしたが、三成の人生や佐和山城のたどった運命と重ね合わせると、身に沁みるものがあります。
 佐和山が落城した後、三成に代わって井伊家が藩主になり、新たに彦根城が作られた後、佐和山城は徹底的に破壊され、山も削られました。今年初めて本丸の発掘調査現地説明会が行われましたが、残念ながらその説明会には参加できなかったものの、調査にあたった学芸員の講演でその調査内容が明らかにされていましたし、拙ブログ記事でもその内容を取り上げました。
 また近年になって、佐和山城の石垣が彦根城の石垣の一部に使われていることが確認されましたが、これについては現地説明会に参加し、そのことも拙ブログで以前記しました。
 

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