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zoom RSS 石田三成の実像1786 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」8 7月29日付昌幸宛書状

<<   作成日時 : 2016/12/04 11:25   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、(慶長5年)7月29日に発給された、いずれも真田昌幸宛の3通の書状について、考察が加えられていますが、興味深いものです。その書状は宇喜多秀家書状、毛利輝元書状、長束正家・増田長盛・前田玄以連署状です。
 宇喜多秀家書状と毛利輝元書状は、「内容の文も同じ」ながら、宇喜多秀家書状は「文末が『猶自治部少可被申入候』と記されているのに対し」、毛利輝元書状では、「文末が『猶従年寄衆可被申入候』と記されている点が異なっている」と述べられ、宇喜多秀家書状の「副状の発給者が石田三成であるのに対して」、毛利輝元書状の「副状の発給者が三奉行(『年寄衆』)である」と記されています。もっとも、この三成の副状は見つかっていないことが指摘されています。
 このように内容が同じ書状を二大老が別々に出している理由について、「二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)が7月29日の時点で別々の場所にいた、という可能性が考えられ」、「宇喜多秀家と石田三成がいた場所は伏見と考えられ、毛利輝元と三奉行は大坂城にいたと考えられる」と指摘されています。
 確かに、三成は伏見城攻撃の督戦に7月29日に行っていますし、宇喜多秀家は伏見城攻撃に当たっていました。白峰氏の同書には、表2として「毛利輝元、石田三成など主要人物の所在場所(居所)に関する表(慶長5年5月29日〜同年9月15日)」が掲載されていますが、宇喜多秀家について「7月22日 宇喜多秀家の軍勢が伏見(城攻めの包囲攻撃中の陣)へ詰めることが完了した」、「7月29日 伏見か?」と記されています。
 なお、三成の居所として、「7月18日 豊国社(京都)」、「7月27日 佐和山」、「7月29日 伏見」、「8月1日〜4日 大坂城」、「8月5日 場所不明(佐和山か?) 佐和山(近江)(これから出陣)」、「8月6日 佐和山(近江)」、「8月8日 尾張方面へ出陣」、「8月10日 大垣城(美濃」)」(以下略)などと記されています。
 三成が挙兵した直後の居所は記されていませんが、私は桐野作人氏の見解通り、しばらく佐和山にいたものと考えています(大坂城に入ったのは7月30日)。
 さて、7月29日の書状ですが、毛利輝元書状が「真田昌幸に対して『秀頼様』への『忠節』を求めた短い文であるのに対して」、その副状の三奉行連署状では、「伏見城の落城が近いことや九州・西国・北国を支配下に置いたことなどを報じたうえで『秀頼様』への『忠節』を求めた長い文になっている」と述べられています。それらをもとに「この場合の二大老と四奉行の役割は、二大老…豊臣公儀の意向(秀頼への忠節)を表明、四奉行…豊臣公儀の意向(秀頼への忠節)表明についてその詳細を伝達する、というようにまとめられる」と指摘されています。

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