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zoom RSS 大河ドラマ探訪460 「真田丸」127太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回8  家康に協力した片桐且元

<<   作成日時 : 2016/12/06 11:18   >>

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 太田浩司氏の「『真田丸』講座」第三回の中で、「片桐且元はどうして徳川方に協力せざるを得なかったのか?」ということについても取り上げられ、秀頼から且元の大坂城退去が命じられたことが大きいと指摘されていました。
 拙ブログでも触れたように、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)でも、且元が大坂城から退去したことによって、家康が戦いを起こす口実となったと記されています。
 太田氏の講座では、今年発見された且元の書状に関する京都新聞の記事がレジュメに掲載され、講座の中でも触れられていました。和睦前日の12月18日に記されたもので、その内容について記事には次のように書かれています。
 「大坂城への砲撃を指揮した且元が西本願寺12代宗主の准如(じゅんにょ)に宛てており、大坂城に近い『備前島』に布陣する且元のそばで、戦況に満悦する江戸幕府2代将軍秀忠の姿が記される。『大坂より色々御詫言候』と、豊臣側から非を認めてきたという記述がある」と。
 その記事には、太田氏のコメントも掲載されています。
 すなわち、「あまり知られていない、徳川方になった後の片桐且元の行状を浮き彫りにする貴重な史料。将軍秀忠が機嫌よかったと報告したり、両家の和睦を望んだりしている様子から且元の心中が伝わってくる。且元が、大坂冬の陣をどう戦ったかがよく分かる」と。
 「真田丸」では、且元は豊臣寄りの人物として描かれ、信繁に大坂城入りを勧めるのも且元でしたし、家康が大坂城に砲弾を撃つ時も消極的であり、家康に淀殿の居場所を訊かれて、淀殿のいない所に撃つためだという家康の言葉を信じて、教えていました。家康はそれを聴いて、淀殿のいるところを狙えと密かに指示し、砲弾を撃ち込まれた淀殿側に犠牲者が出たことを知った且元が家康に抗議する場面がありました。
 且元が豊臣家の存続を願っていたのは確かだと思いますが、豊臣家は家康には逆らえず、屈服するしかないと考えていたのではないでしょうか。
 且元自身が、もともと家康の息のかかった人物であり、秀吉の死後は絶えず家康の顔色をうかがっていましたし、武断派による石田三成襲撃事件の際も徳川寄りであり、且元が大坂城を制したために、三成の反撃も頓挫してしまいました。
 「真田丸」では、且元は三成にも一目置いており、三成が植えた桃の木の成長を喜んでいました。この桃の木も大坂落城と共になくなってしまうのではないかと思われますが、そのことも描かれるのかどうかも気になります。且元も近江出身ですから、三成には密かに親近感を覚える部分もあったのかもしれません。

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