関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1789大河ドラマ探訪461 「真田丸」128 「MEET三成展」のドラマの小道具類

<<   作成日時 : 2016/12/08 17:33   >>

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写真は彦根城の開国記念館の紅葉を11月23日に撮ったものです。佐和山でののろし駅伝に参加した後、開国記念館で開催中の「MEET三成展」を見に行きました。「MEET三成展」を見学するのは三度目でしたが、二回目は11月5日でしたから、内容は全く変わっていませんでした。展示物でもう一度じっくり見たのは「真田丸」で使われていた小道具類でした。
 四点ありましたが、「内府ちかひの条々」、大谷吉継が諸大名に味方するように促していた書状、三成が吉継の娘である春にお礼に渡していた筆、秀吉の形見の脇差と金子袋でした。「内府ちかひの条々」については、「真田丸」では三成が読み上げていましたが、この段階(7月17日)で、三成は大坂城に来ていないと思っています。三成は7月11日に挙兵した後、佐和山にとどまり、豊国社に参拝したのが7月18日、伏見城に督戦に来たのが7月28日、その翌日に初めて大坂城に入っています。これは桐野作人氏の見解に基づくものですが、私はそれに賛同しています。
 「真田丸」では、吉継が書いていた書状は、途中で三成が代わって書いていましたが、 白峰旬氏も指摘されているように、実際は二大老・四奉行が連署状などを通じて、諸大名に書状を送っていました。
 三成の筆に関しては、「真田丸」では三成が筆をお礼として春に渡したのを、春は誤解して三成が自分に気があると思い込んでしまうという描き方であり、三成は春と結婚する信繁に対して、「苦労するぞ」と言っていましたが、こういう設定にしているのは何か意味があるのかよくわかりません。彼女が嫉妬を燃やす場面がありました(きりに対してよりも、信繁の最初の妻であった、死んだ梅【史実ではもっと長生きしていますが】に対して)が、そういう性格だと言いたいがために、こういう話を三谷氏が考えたのでしょうか。
 形見の脇差については、三成が武断派七将による襲撃事件の責任を取らされる形で、奉行職を解かれ、佐和山に隠居することを申し渡される場面で、床の間にこの脇差しが飾られている写真がパネル展示されていましたが、私は脇差がこの場面で使われていることに、ドラマを見ている時には気づきませんでした。この脇差はずっと三成の部屋に飾られていたのでしょうし、三成が豊臣家を守るという固い意思を持っていることを表すための小道具になっているわけです。
 三成の映像コーナーで、3月に東京で行われた「出陣式」の様子や「真田丸」での三成登場場面などを改めて見ましたが、やはり加藤清正が三成に「おまえには情ってものがないんだよ」と言う場面や、信繁が三成について「人を不快にさせる何かを持っている」と言う場面が強烈で、江戸時代からの三成像が投影されていることを痛感しました。目下、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)を読み直していますが、三成は人情味や人望がないという描き方がされており、徳川史観に強く影響されていることを感じます(他にもいろいろと問題を感じていますが、改めて触れます)。

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