関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1806 映画「関ヶ原」公開に対する期待と不安・司馬遼太郎氏の原作の問題点1

<<   作成日時 : 2017/01/01 22:18   >>

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 昨年は「真田丸」で三成が重要な役割を果たしたということで、関連の講座・講演やイベントがいくつも行われ、結構の数参加しましたが、今年は岡田准一さん主演(三成役)の映画「関ヶ原」が公開されるということもあって、期待がふくらみます。
 映画の内容が原作通りになるかどうかはよく分からないのですが、今回、改めて司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)を読み直しました。拙ブログでも記したように、この小説は自分にとって三成本の原点ともいうべき存在であり、愚直なまでに義を貫いた三成の姿が描かれていて悪くないのですが、今から見れば、従来の捉え方で描かれた作品であり、問題点を数多く含んでおり、もし映画もこの線に沿って制作されるのだとしたら、間違った見方が広がりかねないという懸念と不安を持ちます。
 小説「関ヶ原」の問題点の一つは、北政所=加藤清正ら武断派大名=家康派、淀殿=三成ら吏僚派大名という捉え方がされていることであり、北政所は秀吉死後、小早川秀秋にも家康に味方するよう言っています。しかし、これは徳川史観に基づいた捉え方であり、これに対して、北政所は三成に理解を示し、三成の挙兵にも賛成していたという見方を白川亨氏・佐賀郁郎氏などが示されています。また関ヶ原の戦いの際の大津城の開城交渉ににおいて、北政所と淀殿の連携があったとの見解が、跡部信氏によって指摘されています。
 第二は、七将による石田三成襲撃事件の際、三成が逃げ込んだのは敵である家康の屋敷だという描かれ方がされていますが、三成が逃げ込んだのは、伏見城内の治部少輔丸の自分の屋敷だとする見解が笠谷和比古氏によって示され、それが今では一般的に認められています。
 第三は、その事件の際、家康は三成の奉行職を解いたものの命は救いましたが、それは今は三成を生かしておいて、泳がせ、敵対勢力の結集を促して、その勢力を一気にたたきつぶして、天下を奪取しようとするためだという描き方がされていることです。これはその後もずっとそうで、その後、家康が前田利長に家康謀反の疑いをかけたのも三成に挙兵を促すのが目的だったものの、利長が屈服したために家康は断念したという流れになっています。さらに、今度は家康は会津攻めを強行しますが、それは自分が大坂を離れることによって、三成の挙兵を促すためだったというわけです。しかし、家康のやり方については、そういうリスクを伴うような方法を取ることは極力避け、敵対する勢力を一つずつ屈服させ、つぶしてゆくという、個別撃破の着実な方法を取っていったということを中井俊一郎などが唱えられており(『石田三成からの手紙』【サンライズ出版】)、私もその見解を支持しています。
 

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