関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1816 堺めぐり2 公開されている千利休屋敷跡・切腹理由についてのガイドさんの説明

<<   作成日時 : 2017/01/11 10:44   >>

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 写真は堺の宿院の千利休屋敷跡にある井戸を5日に撮ったものです。千利休屋敷跡に行ったのは数年ぶりのことですが、驚いたことは、敷地の中に入れ、井戸のそばまで近づけることができるようになっていたことであり、ガイドさんも待機していて、詳しい説明を受けることが出来たことです。以前には柵があって、遠くからしか眺めることしかできませんでした。
 ガイドさんの説明によれば、この土地の持ち主の裏千家の配慮によって、公開されるようになったそうです。千利休屋敷が堺にあったのは確かですが、実際この場所であったのかどうかについては確定出来ないということです。なぜ確定できないのかと云えば、大坂夏の陣の際、堺の町がほとんど焼けてしまったために、確かな位置がわからないということです。大河ドラマ「黄金の日日」では、家康に堺が攻められた時、ルソン助左衛門が町に自ら火を放つという展開になっていましたが、実際に火をつけたのは、豊臣方の大野道犬でした。
 ガイドさんは、利休の生涯について、簡単に説明していましたが、利休自身は茶の湯についてほとんど書物を残していず、高弟の山上宗二が書いているということに興味が惹かれました。こういう例は枚挙にいとまがありません。古くはソクラテスも孔子も自分の教えを述べた書物を書いておらず、弟子が先生はこうおっしゃったと書いた書物が残っているだけです。ちなみに、山上宗二は小田原攻めの際、秀吉の勘気に触れ、惨殺されますが、その時から利休は自分の死も覚悟したという見解を白川亨氏は示されています。利休が切腹したのは、その翌年のことです。
 ガイドさんは切腹の原因について、いろいろな説を出していました。政権内で力が大きくなり過ぎたこと(「公儀のことは秀長、内々のことは利休に」という言葉も出していました)、その秀長が生きておれば、利休のことをかばったはずだから、切腹には至らなかったこと、茶道に対する考え方の違い(黄金の茶室の秀吉に対してわび茶の利休)、高い茶道具を売って暴利をむさぼっていたことが問題視されたこと、秀吉が利休の娘を側室に求めたのに拒否されたこと、利休が朝鮮出兵に反対だったこと、大徳寺山門に利休の木像を安置した時、下を通る人を踏みつける形になったことが問題視されたこと、利休が秀吉に謝れば、命は救われただろうが、敢えてそれをせず、毅然とした態度を取ったことなど。これらの説の真偽については、改めて後述します。
 さすがに三成の策謀という説は出されていませんでしたが、今でも小説やドラマでそのような描かれ方がされているのは残念なことです。しかし、これは江戸時代に形成された陰謀家=三成の踏襲に過ぎません。利休は山上宗二の死後、茶会をたびたび開いていますが、三成や兄の正澄も招かれています。第一、三成が策謀をめぐらそうとしても、東北・関東に行っており上方には切腹直前まで不在でした。












































 

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