関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1817 堺めぐり3 「さかい利晶の杜」・秀吉が利休の娘に懸想した話の疑問点

<<   作成日時 : 2017/01/12 20:59   >>

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 写真は堺の千利休屋敷跡のすぐ西隣に建つ「さかい利晶(りしょう)の杜」の施設を撮ったものです。昨年オープンしたばかりで、このような建物ができているのは知りませんでした。千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館などが中に入っていますが、今回は時間がなくて、観覧できませんでした。堺が生んだ二大偉人に関する施設ですから、近々改めて訪ねたいと思います。
 千利休屋敷跡との間の道路も新しくなっており、ここが新たな観光スポットになっていることがわかります。
千利休屋敷跡の説明ガイドさんが、利休が切腹させられた理由について、いろいろな説を出しておられたことは昨日付の拙ブログで記しましたが、秀吉が利休の娘に懸想したものの、断られた説について、川口素生氏の「千利休101の謎」(PHP文庫)の中で、その説が疑わしいことが論じられています。秀吉が利休の娘のお吟に懸想したという話は、江戸時代後期に成立した「絵本太閤記」に記されており、その種本は「千利休由緒書」などであること、その書によると、天正19年(1589)に秀吉が東山で鷹狩りに行った際に見かけた美女の素性を調べさせたところ、利休の娘で、万代屋宗安(もずやそうあん)の未亡人であったことが判明し、秀吉は彼女に奉公に来るように命じますが、彼女はきっぱり断ったというような話であること。しかし、この話はおかしく、宗安が亡くなったのは、利休の切腹後の文禄3年(1594)であることから、彼女はその時点で未亡人ではなかったと川口氏は指摘されています。
 また「茶湯秘抄」や「松屋名物集」では、宗安の未亡人ではなく、千紹二(じょうじ)の妻となっていた利休の娘をめぐって秀吉との間に一悶着が起こり、利休は切腹させられたと記されており、「千家系譜」では、石橋良叱(りょうしつ)の妻となった利休の娘の名が吟子と記され、川口氏の同書では、利休の「娘の名、嫁ぎ先、後家になった時期が、書物によって食い違っており、どの娘が秀吉の懸想を受けたのかが定かではない」と指摘されています。
 なお、この万代屋宗安は、三成と親しい仲であり、関ヶ原の戦いの直前、大垣城にいる三成のもとを訪ねた宗安に対して、三成が肩衝(かたつき)茶入を託したという話があり、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)でもそのように描かれています。しかし、宗安自身はすでに文禄3年に亡くなっていますから、万代屋はすでに代替わりしているわけです。このことは以前に拙ブログでも取り上げたことがあり、川口氏の同書では、三成が肩衝を預けたのは宗安の息子の宗貫ではなかったかと指摘されています。またこの肩衝を託したという話の出典は「武辺雑話」だということも記されています。
 いずれにせよ、利休の弟子であり娘婿である万代屋宗安と三成の親しさから見ても、三成と利休の関係がよくなかったとは思えません。
  

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