関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1818 堺めぐり4「山上宗二供養塔 一会塚」・南宗寺と大徳寺からわかる利休との関係

<<   作成日時 : 2017/01/13 10:51   >>

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写真は堺の南宗寺の塔頭の天慶院の前にある「山上宗二供養塔 一会塚」を5日に撮ったものです。山上宗二は千利休の高弟でしたが、小田原攻めの際、秀吉によって惨殺されました。利休が切腹させられるのは、その翌年のことです。
南宗寺に千利休一門の供養塔があり、山上宗二の供養塔も南宗寺の塔頭の天慶院にありますし、南宗寺を再建した(創建したのは三好長慶)のが三成と親しかった沢庵和尚であったことからしても、利休と三成の関係の親密さがうかがえるようです。
 それは京都の大徳寺でも同じであって、利休は大徳寺の山門の金毛閣を建てますが、春屋宗園はそれに感謝して利休の木像を作ります。その木像が問題となるわけですが、春屋宗園は三成の参禅の師であり、三成が師匠を陥れることは考えられません。三成は宗園を開基として大徳寺の塔頭の三玄院を建て、関ヶ原の戦いの後処刑された三成の遺骸を宗園は引き取り、三玄院に手厚く葬ります。三成が木像を問題視したとすれば、大徳寺の不利益になることをしでかしたわけで、宗園や沢庵和尚が三成の遺骸を引き取るはずがありません。また大徳寺の聚光院は利休の菩提寺であり、聚光院をはじめとして大徳寺の塔頭では利休の命日に追悼の茶会を開いており、三玄院も例外ではありません。利休は宗園とも親しく、ここからも三成と利休の親しさがうかがえます。
 堺の千利休屋敷跡には問題となった利休の木像の写真が掲げられており、ガイドさんも拝観したことがあるそうです。私はテレビの番組で見たことがあるだけですが。
 金毛閣に安置された利休の木像が人を踏みつける形になり不遜だと問題視されたのは、天正19年(1591)の初頃からのことだと、川口素生氏の「千利休101の謎」(PHP文庫)の中で指摘されています。もしそうなら、その時、三成は京都にいず、東北、関東にいました。
 新刊の中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の「石田三成略年表」には、このあたりの三成について、「天正18年12月16日 奥州での一揆の勃発によってにわかに奥州へ発向」、「天正19年1月10日 三成、相馬に到着」、「2月中旬 この頃には帰京していたようである」などと記されています。
 このあたりのことは、中野氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』所収)にも記されています。
 利休が咎められ、京都から堺に移ったのは2月13日のことであり、その頃に三成が京に戻っていたかどうかは微妙なところですが、少なくとも天正19年の初め頃から始まった利休糾弾に関わっていないのは明らかです。

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