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zoom RSS 石田三成の実像1820 中野等氏「石田三成伝」2 昌幸と三成の相婿説を主張・その否定的な見解

<<   作成日時 : 2017/01/15 12:05   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、真田昌幸と石田三成は、妻が共に宇多頼忠の娘であり、二人は相婿であったというかねてからの説が踏襲されています。すなわち、「頼忠の本来の苗字は『尾藤』であった。尾藤家は信州中野郷を本貫とするが、頼忠の兄と目される尾藤知宣(とものぶ)(甚左衛門尉、実名は『知定』などとも)が藤吉郎時代の秀吉に家人として仕えていた」と記され、「頼忠の女子の一人が真田昌幸に嫁いでいる。したがって、昌幸が10歳以上の年嵩だが、三成とは相婿の関係となる」と。
 また「真田昌幸の正室、通称『山手殿』(法号は『寒松院』)については菊亭(今出川)晴季の娘ともされるが、武田氏の麾下にあった真田氏が堂上公家(禁裏御所清涼殿への昇殿を累代許される家柄)との間に婚姻を結んだとは考えられない」とも指摘されています。
 大河ドラマ「真田丸」では、昌幸の正室は、最初菊亭晴季の娘と名乗っており、その説で描いているのかと思っていたら、それは彼女のついた嘘で、後で化けの皮がはがれるという展開になっていました。しかし、「真田丸」では昌幸と三成は相婿という説は採られていませんでした。
 相婿説については、拙ブログでも以前触れたように、真田氏を研究している人々から否定的な見解が示されています。「真田丸」の時代考証を担当していた丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)では、「真田昌幸の娘趙州院殿が、宇多頼忠の子頼次に嫁いでいる(『石田系図』『滝川十次郎家記』)。宇多頼次は石田三成の父正継の猶子(養育の有無に関わりなく、政略結婚や政治的関係強化のために、疑似的に親子関係を結んだ養子)となっていたため、石田刑部少輔と称することもあったという」と記され、こういう「一連の姻戚関係が誤解された」と指摘されています。
 橋場日月氏の「知れば知るほど面白い人物歴史丸ごとガイド 真田幸村」(学研)でもほぼ同様の見解が示されています。もっとも、頼次は宇多頼忠の息子ではなく、兄の尾藤知定の息子だと指摘されていますが。また笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)では、「かつては昌幸の正室が宇多頼忠の娘であるとも言われたが、年齢などからして今は否定されている」と記されています。
 やはり「真田丸」の時代考証を担当された平山優氏の「真田三代」(PHP新書)では、「もし『山之手殿』が宇田氏出身であれば、三成と昌幸の関係や、人質を特別に扱っていることなども理解しやすい。ただし確証に欠ける。記して後考をまちたい」と記され、今後の検討課題だとされています。
 一方、相婿説を主張されているのは、白川亨氏であり、「石田三成の生涯」「石田三成とその一族」(新人物往来社)で詳しく論じられています。
 
 

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