関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1821 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」5

<<   作成日時 : 2017/01/16 10:43   >>

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白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件に関しても、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に詳しく記されていますが、的確に事態をつかんでいるところと事実誤認があるところがあることがわかります。
 まず次のように記されています。
 「時が経つにつれて、(石田)治部少輔のもとを離れた軍勢や武将たちの数の増大によって家康は強大になり、勝利者のように、こう言うようになった。(石田)治部少輔が故国の礼儀に従って切腹をしない限り、その他の方法によって日本国が平穏になることはできぬ、と」。
 家康が本当に三成を亡き者にしようと思っていたかはわかりませんし、極端過ぎる記述だという気がします。もっとも、四大老・五奉行が家康の婚姻問題を糾弾した時、その中心人物は三成だったという捉え方がされているので、家康は三成を邪魔者だと感じたというのはありえないことではありません。しかし、ものごとを家康と三成との対立軸で捉えているところが問題です。前田利家の死によって、前田派と三成派の連合が崩れ、襲撃事件に発展するわけですが、そういう意味では三成のもとを離れた武将の数が増えたということは言えるかもしれません。しかし、家康の力が強大になり、天下人と呼ばれるようになるのは、三成の失脚後のことであり、時系列が混乱しているように思えます。
 時系列が混乱しているのは、「ついに家康は、太閤様の息子である主君(秀頼)が住んでいた大坂城を占拠した」という記述もそうです。白峰氏もこの記述について、「通説では、家康の大坂城西の丸入城は慶長4年9月28日であるので、通説よりも約半年以上早いことになるが、この点は、『1599年度日本年報』(【 十六・七世紀イエズス会日本報告集】)の単なる錯誤なのかどうか、という点も含めて今後検討する必要があろう」と記されています。
 昨年11月に長浜市石田町での三成祭の時に行なわれた水野伍貴氏の講演会で、七将による石田三成襲撃事件のことにも言及されていましたが、史料として、「1599年度日本年報」の他に毛利元康宛の毛利輝元書状が取り上げられ、その中に「大坂城は、徳川方が掌握したと聞いている。こちら方は一切(大坂城に)出入できないようだ」との記述があります。この徳川方は小出秀政・片桐且元を指しているのですが、家康が占拠したと宣教師には誤解されて、伝わったのかもしれません。
  

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