関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1823 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」6

<<   作成日時 : 2017/01/18 10:05   >>

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白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、武断派七将による石田三成襲撃事件に関する、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)における記載の続きです。
 伏見にいる三成に対して、家康は「軍勢を率いてそこに到着すると、諸侯の勧めを入れて次の条件で兵力を撤退させることを約束した。すなわち、(石田)治部少輔は、これまで帯びていた官職を捨てた身分に落とされ、今後は国家統治の任を離れ、己がすべての軍勢とともに自領である近江の国にずっと引き籠っているように、と」。
 家康が軍勢を動員したということは日本側の史料では確認されていません。しかし、家康の仲裁によって、三成は奉行職を解かれて、佐和山に隠居したのは事実です。
 「1599年度日本年報」には、三成失脚後、「彼(=家康)はしきりに(小西)アゴスチイノと親交を結び、大いに好情を示した」と記されています。
 この記述について、白峰氏の同論考では、「家康が小西行長に接近したことは、日本側の史料には見えない内容であり注目される。小西行長が石田三成の盟友であった点を考慮すると、家康が石田三成の失脚を好機ととらえて、石田三成と小西行長の関係を分断して、小西行長を自分の派に取り込もうと工作したと見なすことができる。この点については、『1599〜1601年、日本諸国記』(【十六・七世紀イエズス会日本報告集】Tー3、243〜244頁)に詳しく記されており、『(石田)治部少輔追放後、内府様は(小西)ドン・アゴスチイノを己れの味方に引き入れようと努めた』(Tー3、243頁)としている」と記されています。
 鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)にも 、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」における記述から、「家康としては、何とかして三成と行長の関係切り崩しを図ったが、秀頼を中心とする豊臣政権維持という目標で一致していた行長と三成の結合を切り離すことはできなかったのである」と指摘されています。
  「1599年度日本年報」には、三成の敵方は「この者(石田治部少輔)が最高の栄誉の位階を追放されたことでは満足せず、のみならず、この男自身に対する災難、それどころか殺害が仕組まれることさえ恐れなかった」という記述があり、白峰氏の同論考では、この点について、敵対勢力による「石田三成の殺害計画が存在したことを示唆するような内容である」と指摘されています。もっとも、具体的にそういう殺害計画があったことを示す日本側の史料は今のところありませんが。
 

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