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zoom RSS 石田三成の実像1824 中野等氏「石田三成伝」3 昌幸と三成の相婿説2 三成の結婚の時期

<<   作成日時 : 2017/01/19 18:38   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、真田昌幸と三成は、共に宇多頼忠の娘であり、二人は相婿説であったという説を唱えられ、宇多氏の本来の姓である尾藤氏は「信州中野郷を本貫とする」と述べられています この点について、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)の中で、「尾藤一族は、信州中野牧を本拠地とした武士集団であ」ると記されています宇多頼忠は、「弘治年間(1555〜58)信州から遠江の引佐地方に移動し、それから十年間?その地において今川家に帰属」し、「永禄3年(1560)、今川義元が倒れた後、同じ遠州の森地方に移っている。その地には、天正4年(1576)頃までの十五年間、在住する。その間、その地の国人衆とともに、武田信玄配下に組み込まれ、永禄6〜7年頃、真田源五郎(後の真田昌幸)に、その長女(寒松院殿)を嫁がせている」(晩年、白川氏は年齢的な面から、昌幸夫人は宇多頼忠の妹であるという新たな説を出しておられますが、その説については後述します)。
 昌幸は長篠の合戦で二人の兄を失い、「兄・信綱の遺領を継承するため信州に帰ることにな」り、頼忠も、「それから程なく遠州を後にし、兄・尾藤甚右衛門を頼って、近江の長浜城に赴き、羽柴小一郎(後の豊臣秀長)の配下になる」と白川氏の同書に記されています。
 こういう経緯であれば、真田昌幸が宇多頼忠との接点が生まれ、頼忠の娘との婚姻はありえないことではないという気がします。しかし、それなら、三成と昌幸が相婿になったのは全くの偶然ということになってしまい、不自然だという思いを持ちます。秀吉が真田昌幸と接点を持つのは、天正13年頃であり、その時、三成は宇多頼忠の娘とすでに結婚していました。
 三成の婚姻について、白川氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、「三成が羽柴秀長の斡旋によって、その配下にあった尾藤二郎三郎(久右衛門とも)の娘と結ばれたのは、天正6年〜7年(1578〜1579)頃と推定される」と記されています。
 中野氏の同書では、「一次史料で三成の活動が確認される時期には年齢も二十代前半に達しており、この頃にはすでに妻帯していた可能性も高い。逆に、三成が秀吉のもとで台頭していく前提として、有力な姻戚たる尾藤知宣の後ろ盾を得たことの意味は大きかろう」と記されています。
 白川氏の見解によれば、三成は二十歳頃に結婚したことになりますが、この頃は秀吉はまだ信長の家臣だった時代です。尾藤知宣は、「秀吉の初期の重臣の一人であり、織田信長存命中にも播磨国内で5000石の知行を得」たなどと記されています。昌幸と三成の相婿説に従えば、三成ははるか遠くにいる義兄の昌幸に思いを馳せていたことになります。 

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