関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1807 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点2 おびき出され説・問い鉄炮

<<   作成日時 : 2017/01/02 18:04   >>

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 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)」の問題点の第四は、関ヶ原の戦いも、三成方は家康の作戦に乗せられ大垣城から関ヶ原に誘い出されたという展開になっていることです。これも徳川史観に基づいた捉え方であり、これに対して、三成方が関ヶ原の移動したのは、動きの怪しい小早川秀秋が松尾山に入ったためであり、秀秋を牽制することが目的であったという中井俊一郎氏の見解があり、そのことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。
 問題点の第五は、関ヶ原の戦いの経緯についてです。なかなか裏切らない秀秋隊に対して家康は鉄炮を撃ちかけさせるという、いわゆる「問い鉄砲」によって、秀秋が裏切りを決心したこと、島津隊は三成に対する遺恨から戦いに加わらなかったことなど、これも従来通りの軍記物などによる記述に基づいた描き方がされています。
 関ヶ原の戦いについては、拙ブログでもたびたび触れているように、白峰旬氏や高橋陽介氏などによって今までの描き方に対する根本的な見直しがされています。白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)では、「問い鉄砲」は家康の活躍を演出するための後世の創作であったことが指摘されています。
 島津隊の三成に対する遺恨ということについて、「関ヶ原」では、三成が大垣城を出て佐渡に陣を置いた時、味方が合渡川の戦いで敗れたのを知って、墨俣に陣を置いていた島津隊を残したまま、急いで大垣城に引き返したのを島津義弘が怒ったこと、関ヶ原の戦いの前日、島津豊久が夜襲案を進言したのを三成が退けたことが挙げられています。
 この点については、拙ブログでも触れたように、桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)の中で、島津側が三成に遺恨を持っていたことに対して否定的な見解が示されています。前者については、大垣城に「退こうとする三成に義弘の家来二人が馬の口を取って再考を迫ったが、三成にすげなく拒絶され」たということが、「大重平六覚書」に書かれているものの、ほかの島津側の史料には記されていないことが指摘されています。さらに、この時、三成も家臣の高野越中や蒲生郷舎を前線に残しており、島津義弘と同じ立場だったことも、桐野氏の同書には記されています。また島津隊が大垣城から戻ってくる時、三成が気を遣って大垣城から一人で出迎えている点が挙げられています。もっとも、このことは、「関ヶ原」でも描かれていますが、三成と島津義弘の間は気まずかったというふうになっています。
 後者の夜襲案については、島津側の史料である「旧記雑録後編三」には一切記述がなく、江戸後期に成立した「西藩野史」に書かれたているものの、内容の不自然さから創作の疑いが濃厚だと指摘されています。なお、「関ヶ原」では、夜襲案を退けたのは三成になっていますが、「西藩野史」では嶋左近だと記されています。
 

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