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zoom RSS 石田三成の実像1825 中野等氏「石田三成伝」4 昌幸と三成の相婿説3 最初の三也書状・若くして頭角

<<   作成日時 : 2017/01/20 11:01   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、昌幸と三成の相婿説が主張されていますが、昌幸と三成の結婚した年に15年程の大きな開きがあります。両方の妻とも、宇多頼忠の娘であれば、姉妹の間に大きな年齢差があります。この点を指して、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)の中で、「かつては昌幸の正室が宇多頼忠の娘であるとも言われたが、年齢などからして今は否定されている」と記されているのでしょう。
 こういう年齢的な不自然さに気づかれた白川亨氏は晩年の著作「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)では、昌幸夫人は宇多頼忠の妹だという新説を出しておられます。その説の中で、「三成夫人は俗に『姉様女房』と言われているが、せいぜい一〜二歳年上であろうから、永禄元年〜2年(1558〜9)生まれということになろう」と三成夫人の生年が考証されています。三成夫人は佐和山落城の際には城から逃れ、「会津若松に於いて元和元年(1615)10月14日死去」し、「57、8歳(数え年)」であったことも記されています。
 もっとも、昌幸夫人が宇多頼忠の妹だったとする新説は、年齢的な考証から生まれたものであって、史料的な裏付けがあるわけではなく、実際、そうであったのかは今後の検討課題です。
 中野氏の同書では、こういう年齢的なことに対する考証はなく、その点が問題だと云えます。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、「三成夫人と真田昌幸夫人は姉妹であり、宇多頼忠が父親である」と記しましたが、相婿説に対する否定的見解があるのを踏まえ、「新装版」及び「決定版」の「三成伝説」には、「異説もある」という記述を加えました。
 中野氏の同書には、三成の最初の書状の原文と口語訳が掲載されています。天正11年(1583)1月23日付のもので、宛先は広田蔵丞で、「石田左吉」の名と「三也」の花押があります。この書状は、長浜城歴史博物館発行の図録「没後400年特別展覧会 石田三成」にも掲載されていますが、口語訳は付いていません。
 中野氏の同書には、この書状について、「広田蔵丞は淡路の土豪だが、明智光秀に属していた菅達長(平右衛門尉)の軍勢を破り、その軍功を報じた模様である。(中略)袖書きの記述から、両者のやりとりはこれが最初というわけではなさそうだし、この文書についても充所の脇付に『御報』とあることから、広田が充てた書状の返信であることがわかる。広田側から恩賞の請求があったのだろうか。いずれにせよ、すでに三成が秀吉の側近として一定の発言権を持ち、他にも認められる存在であったことは確認できよう」と。
 この時、三成は24歳ですから、若くして頭角を現していたことがわかるわけです。これまでの三成の行動は一次史料で確認できないということも述べられていますが、本能寺の変までは、秀吉の中国攻めに従っていたものと思われます。

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