関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1826 堺めぐり5 千利休屋敷跡の記念碑・利休が暴利をむさぼっていた説への批判

<<   作成日時 : 2017/01/21 11:13   >>

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 写真は千利休屋敷内に建つ、利休の事績を記した石碑を6日に撮ったものです。
 利休切腹事件の時に、三成は京に戻っていなかったことが、白川亨氏の「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)で指摘されています。これも以前に拙ブログで紹介したことがありますが、「宗湛日記」の天正19年2月5日条に増田長盛、三成、大谷吉継が茶会を開いたという記載があり(11日には宇喜多秀家たちが茶会を開いたという記述もあります)、当時三成は博多におり、「その後、名護屋に赴いたであろうから、3月下旬以降でなければ帰坂できない」と。
 三成がこの時期、名護屋に赴いたことは確認できませんが、2月5日、11日に博多にいたのが事実なら、「時慶記」の2月15日条に「石田治部少輔本門へ一礼アリ」という記述(三成が京に戻っていたことを示すもの)と矛盾します。このあたりの三成の居所と行動についてははっきりさせる必要があり、それがひいては利休切腹事件への三成の関与を晴らすことにもつながります。
 千利休屋敷跡でガイドさんが利休切腹の理由についていろいろな説を挙げていたことは拙ブログで述べましたが、利休が朝鮮出兵に反対していたというのは事実でしょうし、その点では三成も同じでした。秀吉の代わりに渡海し、朝鮮半島での日本軍の戦いの実態をつぶさに見て、戦争を継続することが困難であることを改めて感じ取り、和平交渉に向かって行ったことでもそれがわかります。
 利休が茶道具などを売って暴利をむさぼっていたことも利休糾弾の理由になったことにも触れられていましたが、これについては、川口素生氏の「千利休101の謎」(PHP文庫)の中で、「多聞院日記」と「晴豊公記」の記述について、検討が加えられています。
 「多聞院日記」には、「新作の道具類を用意して高値で売った」、「売僧の頂上、代表格」だとすることが記されているものの、「これは利休が、国産の道具類の使用を奨励したことに起因する誹謗中傷ではないか」「頑迷な茶人、門外漢の素人らは暴利を得ていると邪推し」たと川口氏の同書で指摘されています。
 「晴豊公記」には、「その子細は茶湯道具の新物どもを緩怠(けたい)に取換(とりか)わし」などという記述があるものの、「新作の道具類売買を批判しているのであって、利休による鑑定や仲介、売買の全てを批判しているわけではありません」と指摘されています。
 そして、「この利休売僧説は具体的な論拠が乏しいこともあって、研究者の間でこの説を信奉する方はほとんどいないのが現状です」と結論付けられています。
 大河ドラマ「真田丸」では、利休が北条方と通じて、武器の材料を売りつけており、秀吉に北条攻めを勧め、それが後で発覚して、それが切腹の理由になったという展開になっていましたが、これは全くのフィクションです。もっとも、これは利休が堺の商人でもあり、利休売僧説から思いついた話ではないかと思われます。
  

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