関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1827  中野等氏「石田三成伝」5 天正11年に発した書状と「宇野主水日記」の記述

<<   作成日時 : 2017/01/22 18:48   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が一次史料として出てくるのは天正11年のことだと記されていることは前述しましたが、1月23日付の淡路の広田蔵丞宛の書状、2月7日付の越後西雲寺宛の木村吉清・増田長盛との連署状、3月13日付の近江称名寺宛の書状、6月28日付の狩野秀治・直江兼続宛の書状、8月16日付の狩野秀治・直江兼続宛の長盛との連署状が挙げられています。
 これらの書状から、三成はまだ24歳という若さであるにもかかわらず、増田長盛・木村吉清と共に「対上杉交渉の実務を当初から担」い、賤ヶ岳の戦いの直前に「敵状視察の集積にあたっていた」ことがわかると記されています。
 称名寺宛の書状は、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)や中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)などでも取り上げられています。中井氏の同書では、7月11日付の直江兼続宛の長盛・木村清久(吉清)との連署状が取り上げられていますが、これは天正11年のものではなく、翌天正12年のものであることが、中野氏の同書に記されています。秀吉が上杉側の証人が上洛したことを喜んでいることを告げる秀吉書状の副状です。
 また「宇野主水日記」には、天正11年後半には、「石田左吉」の名が散見されることが、中野氏の同書で指摘されています。さらに「この年7月に筆を起こす『宇野主水日記』の表紙見返しは『筑州家中(かちゅう)面々』として、杉原七郎左衛門(家次)・浅野弥兵衛尉(長吉、のちに長政)・増田(ました)仁右衛門(長盛)・石田左吉・羽柴小一郎(秀長)・堀久太郎(秀政)・蜂屋兵庫助(頼隆)・織田左兵衛佐(津田信張)といった名があがっている。ここでいう『出頭』とは、主君の側にあって政務や要務に参与する者をいう」と記されています。こういうことから、三成は「いまだ二十代前半でありながら、その持てる才気のゆえからか、すでに秀吉家中のなかで卓出した存在だったであろう」と指摘されています。
 天正12年の、俗に言われる小牧・長久手の戦い(実際の戦いは「長久手」ではなく、南の「岩崎」で行われたとされることにも触れられています。なお、この見解は私の知る限りでは、鴨川達夫氏の「長久手の戦い」《山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編『消された秀吉の真実』【柏書房】所載》で示されています。拙ブログでも以前取り上げました)は、やはり「宇野主水日記」の4月20日条に、「三成や増田長盛らも秀吉の陣所にあった」ことが確認できるものの、「浅野家文書」の陣立書には三成らの「名前を確認することができない」ことから、「三成や長盛のつとめは秀吉に近侍することであり、軍勢を率いて戦闘にあたる立場にはなかったからであろう」と指摘されています。
 

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