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zoom RSS 石田三成の実像1829  中野等氏「石田三成伝」7 左吉から治部少輔へ・矢沢綱頼宛の三成書状

<<   作成日時 : 2017/01/24 19:05   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「左吉」から「治部少輔」に変わったのが確認できるのは、「宇野主水日記」の天正13年(1585)9月10日の記述であり、14日の条にも、秀吉の有馬湯治に従った面々の中に、「石田治部少輔」の名があることが記されています。
 その前の8月には、秀吉は越中攻めに向かいますが、その時の三成の居所を示す史料はないものの、「これまでの三成の動きからして推すと、秀吉に近侍して越中攻めの陣中にあったものと考えたい」と推定されています。
 この時に、秀吉、景勝、三成、兼続の四人の会見が越後、越中の境の墜水(おちりみず)で行われたということが、小説などで描かれていますが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも、「上杉三代日記」に記されているだけで、上杉家正史には記録がなく、この会見を疑問視する研究者も多いことが記されています。
 中野氏の同書でも、この会見についての言及はありませんが、この書はもっぱら一次史料を取り上げて、三成の実像に迫ろうとしていますので、こういう編纂史料などの類は極力排除されています。その姿勢はいいことだと思っています。
 この後、中野氏の同書では、10月18日の真田昌幸の重臣である矢沢綱頼宛の三成書状が取り上げられています。この前日、秀吉は真田昌幸に初めての「直状(じきじょう)」を送り、「秀吉と真田氏の直接交渉がここから開始された」と指摘されています。
 この三成書状の最初に、「これまで親しくやりとりをしたこともありませんでしたが、先般真田昌幸(安房守)殿のことは上杉家の使者から細かにうかがいました」と記されています。
 このことから見れば、秀吉・三成が真田氏と接触を持ったのは天正13年のことであり、どうもそれより前に三成と昌幸の関係はなかったと思えて仕方ありません。昌幸と三成が相婿であったとすれば、それまでに書状のやりとりぐらいはしていてしかるべきだと思うのですが。
 もっとも、中野氏は相婿説を取っておられますから、同書に「三成は正室宇多氏を通じて真田昌幸と相婿という関係をもっており、この段階の秀吉の信濃・関東政策にあって、中核を担うに恰好の存在であった」と記されています。
 この三成書状には、「私は上杉家のお世話を担当しているので、今後は特に御用などうかがっていきます」と記されていますが、中野氏は「三成は越後上杉氏の存在を前提に真田氏との関わりを開始しているようである」と指摘されています。
 
 
 

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