関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1830 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」7

<<   作成日時 : 2017/01/25 10:39   >>

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白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、石田三成失脚後、三成たちによる家康に対する陰謀の画策があったという記述が、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)にあることが記されています。
 すなわち、「内府様(徳川家康)はともかく非常に強力で、その政庁における首位の座を占め、いとも絶対的であり、命令し、すべてを治める唯一の人物となった。それによって、他の者たちが、彼に大いなる反感を抱き始め、一体化し、彼と衝突するための陰謀を準備した。とりわけ、このことにあたったのは、三ヵ国の国主(前田)肥前(利長)殿、また非常に強力な国主(上杉)景勝で、両者とも有力奉行(大老)であった。そしてより下級奉行には、この陰謀のもっとも主要な張本人である(石田)治部少輔(三成)がおり、彼にはその親友であることから(小西)ドン・アゴスチイノ(行長)が大いに賛同した」と。
 三成失脚後の家康の専横については、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)に次のように記されています。
 「五大老・五奉行の中から前田利家と石田三成という有力な二氏が欠けたことにより、豊臣公儀を担う家康の政治的立場は、ますます重みを増していった。13日に家康は向島の自邸から、伏見城西の丸に移った。伏見城は太閤秀吉の政庁であったから、寺社や公家の日記では、『天下殿に成られ候』、『諸人大慶』などと記している」と。
 「日本諸国記」に記されている三成たちの家康に対する陰謀計画について、白峰氏の同論考には次のようにまとめられています。
 「家康VS前田利長・上杉景勝・石田三成・小西行長という対立軸であり、石田三成がこの『陰謀』の首謀者であった」、「この陰謀画策があった時期は、慶長4年閏3月4日以降、同年8月上旬以前ということになる」と。
 しかし、日本側の史料に、この時期、三成たちにこのような陰謀計画があったことは確認されていません。七将による石田三成襲撃事件によって、三成派と前田派とは対立関係になりますから、三成と利長の連携は考えられないのではないでしょうか。実際、この後、利長による家康暗殺計画があったとされ、三成は家康の要請により、兵を派遣しています。しかし、彼らが結びついていないとしても、いずれも反家康勢力であったことは事実ですから、そのあたりから、そのような噂が立ったのかもしれませんが、このことについては今後の研究課題です。
 
 

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