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zoom RSS 石田三成の実像1833 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」3 天正19年国割

<<   作成日時 : 2017/01/27 10:40   >>

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 22日に長浜で行われた、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」の中で、秀吉による天正19年(1591)国割について次のように説明されていました。
 小田原合戦後、徳川家康を関東に移封し、東海道・東山道に豊臣系大名を配置し、それまで近江にいた諸大名は東海道筋に移されます。具体的には、中村一氏を駿府に、山内一豊を掛川に、堀尾吉晴を浜松に、羽柴秀次を尾張に、田中吉政を岡崎にと。その代わり近江には奉行衆を配置し、近江の豊臣化がさらに進行します。
 講義では、奉行衆の石田三成については触れられていませんでしたが、正式に佐和山の城主になったのは文禄4年(1595)7月のことですが、代官として佐和山城に入城したのは天正19年4月のことです(伊藤真昭氏の見解)。
 この点について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「三成は(天正19年)4月27日付で、近江国犬上・坂田郡と美濃国の豊臣家蔵入地代官を命じられ」、「この頃、美濃国安八郡神戸を中心とする領知を充行われ」、「近江国内の豊臣家蔵入地を支配する代官としての立場から佐和山城を預かっていた」と記されています。
 松下氏の講義では、太閤検地は、「中世的な複雑な土地所有関係を整理」するもので、「在地領主制・荘園制の消滅」を招いたと説明されていました。
 また近江における太閤検地は天正11年、天正19年、文禄5年に行なわれたと述べられていました。
 このうち、三成は天正11年に近江国蒲生郡今在家村の検地に関わっていますが、太閤検地を主体となって進めたのは三成でした。文禄3年の島津家や佐竹家の検地には家臣を派遣して自分は現地に行っていません(中野等氏の見解)が、それを指示していたのは三成です。島津家の検地で使われた、三成の署名入りの検地尺が残っていることからもそれがよくわかります。天正17年の美濃国検地、天正18年の奥州検地、文禄4年には大和国検地を行っていますが、これらは実際、三成が現地に赴いています。
 松下氏の講義では、在地領主の運命は、「大名の家臣となって在地性を喪失する」か「侍身分を捨てて百姓として土着」するしか道はなく、兵農分離が図られたと説明されていました。もっとも、「郷士」として存在する「第三の道」もあったことにも触れられていましたが。
 秀吉が座商業を否定したことは、中世的な商業体系の消滅だとも指摘されていました。
 また秀吉は中世的な近江の在地社会を解体することによって、近世近江へと踏み出したという点も明らかにされていました。秀吉が大名を転封させたことは、在地性を否定することであり、このやり方は徳川幕府にも引き継がれました。

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