関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 「長浜城跡・城下町跡」現地見学会1 秀勝の墓・正方形の町の区画・長方形も・京都の町との類似性

<<   作成日時 : 2017/01/28 11:03   >>

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  写真は長浜の妙法寺にある羽柴秀勝とされる人物の墓を22日に撮ったものです。長浜市長浜城歴史博物館長の太田浩司氏の案内・解説による「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会で、まず曳山博物館のところから南下して妙法寺を訪ね、墓にお参りしたことは拙ブログで前述しました。秀勝は石松丸と呼ばれ、幼くして亡くなっていますが、母は一説には秀吉の側室の南殿と云われ、「竹生島奉加帳」に秀吉、石松丸、南殿の名が記載されています。秀勝とされる人物が埋葬されていた場所(妙法寺の境内)にも案内してもらいました。
 現地見学会は、いつもながら、わかりやすい太田氏の解説(時々冗談も入れながら)でしたが、秀吉当時の町割がほとんど残っていることが歩いてみてよく理解できました。むろん、建物は全く変わっていますが。
 秀吉時代の城下町のメインストリートは、「大手通」でしたが、今も「大手門通り」として、一番の繁華街になっています。太田氏の説明によると、「大手通」は東西を貫いているものの、縦町であり、もう一本南にやはり東西に入る「本町通」があり、これも縦町であるのに対して、縦町と直角に交わっている南北の道(北国街道もそうです)が横町ということになります。われわれが普通に考える東西南北による縦、横の概念と反対になっているわけです。
 われわれは妙法寺から北に向かい、「大手門通り」の一番東の端を通りましたが、そのあたりが、城下町の東の端付近です。さらに東へ行くと長浜八幡宮がありますが、今回は長浜八幡宮には立ち寄りませんでした。道の東の奥に八幡宮の鳥居がかすかに見えていました。
 また長浜の町の区画は大体正方形になっていることも太田氏の解説によって知りましたが、平城京や平安京の町作りと類似していると思いました。普通の町の区画が長方形になっているのと比べて、正方形の場合は真ん中に空間ができることが指摘されていました。実際、現地見学会でそうなっているところを具体的に確認しました。しかし、長浜の町でも、真ん中に南北の道を作って、長方形の区画にしているところもあり、その道のところにも実際、立ち寄って確認しました。
 なお、京都の町にも、そういう道を秀吉が作って、長方形の区画にしているところがあることが、天野太郎氏監修の「古地図で歩く古都・京都」(三栄書房)で指摘され、次のように記されています。
 「現在の御幸町通や堺町通、間之町通、車屋町通などは、このときに生まれた通りだ。
 こうして多くの町が正方形の碁盤目状ではなくなった。だが、これによって空き地は宅地へと変わり、より多くの家や商家を建築できるようになった。秀吉のもくろみ通り、京の人口は増加し、経済活動も活性化したのである」と。
 

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