関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1808 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点3 戦いの経緯・島津家の動向

<<   作成日時 : 2017/01/03 15:31   >>

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 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)」の問題点の第五として、関ヶ原の戦いの経緯について取り上げ、その一つとして島津隊は三成に対する遺恨から戦いに加わらなかったと描かれているおかしさについて触れました。
 島津隊は動かなかったのではなく、そもそも二番備であり、戦いに参加しようと思っていたら、小早川秀秋が裏切り、勝敗が決してしまっていたということが桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)の中で指摘されています。小説「関ヶ原」では、秀秋が裏切ったのは正午頃であり、それで西軍が崩れ始めたとする従来からの通説に従って描かれていますが、桐野氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)では、島津家家臣の史料から「正午頃にはすでに石田勢は総崩れになっていた」と記されています。
 これに対して、拙ブログでもたびたび取り上げたように、白峰旬氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)では、秀秋は開戦と共に裏切ったと指摘され、白峰氏の論考「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」(別府大学史学研究会『史学論叢』所載)では、15日早朝に関ヶ原エリアで大谷吉継は家康方軍勢と背後からの秀秋の軍勢に挟撃されて敗北し、午前10時頃山中エリアでは家康方軍勢の主力が石田三成方軍勢の主力本隊を正面から先制攻撃して即時に追い崩したと指摘されています。また島津豊久は先備、島津義弘は二番備だったとも記されています。
 こういう白峰氏の見解は島津家家臣史料の分析から導き出されたものですが、小説「関ヶ原」をはじめとする従来からの説に基づく関ヶ原の戦いの描き方を根本から覆すものです。もっとも、白峰氏の新たな解釈については今後のさらなる検討が必要であり、白峰氏の同論考の最後にも次のように記されています。
 すなわち「本稿で指摘した石田三成方軍勢の敗北過程については、今後さらに詳細な論証が必要なことは言うまでもなく、その考察については他日を期したい」と。
 白峰氏の今後の研究成果に期待したいと思います。
 小説「関ヶ原」では、秀秋が陣取る松尾山や吉川広家らが陣取る南宮山に動きがないため、三成は島津隊に参戦を促すためにまず家臣の八十島助左衛門を派遣するものの、追い返され、次いで三成自身が訪ねて行くものの、やはり参戦の要請は拒否されたというふうに描かれています。これについては、桐野氏の同書に、「島津側の史料でも裏付けられるので、ほぼ事実であるようだ」と記されているものの、「義弘・豊久が三成に対して掌(てのひら)を返すような態度に出たのは、秀秋の裏切りを知ってからのことだと思われる」と指摘されています。
 

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