関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1834「長浜城跡・城下町跡」現地見学会2 境界石碑・須藤通光書状

<<   作成日時 : 2017/01/29 10:15   >>

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 長浜城跡・城下町跡の現地見学会では、「大手門通り」の東の端を北に進み、大通寺の参道をさらに北上して、大通寺の山門のところに出ました。大通寺は長浜城下町の北東に位置しています。山門の前を左折して、長浜城の大手門を移築したとされる台所門に出ました。大通寺の境内の中を通って、城下町の北東の端に建つ、三ツ矢大神宮のところにある、長浜領の境界を示す江戸時代の石碑のところにたどり着きました。
画像
 写真はその石碑を撮ったものです。江戸時代はこの境界碑が長浜に30本建っていましたが、5本しか残っていないため、今から10数年前、3500万円の寄付を集めて新しい碑などを建て、もとの30本にしたそうです。こういう境界碑が建てられたのは、秀吉の時代から長浜は特別に年貢や諸役が免除されたからであり、その免除は江戸時代も続きました。
  三成がその免除された長浜の諸役を一時的に復活させようとしたことがあります。長浜町に宛てた年不詳の2月16日付の石田家中の須藤通光書状によって、そのことがうかがえます。この書状のことは、現地見学会の解説をされた太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)や、中野等氏の「石田三成伝」(吉川廣文館)などで取り上げられています。中野氏の同書には、現代語訳が掲載されていますので、それを紹介します。
 「態々(わざわざ)申し入れます。今度、佐和山城総構(そうがまえ)の御普請に伴って、近江四郡の百姓すべてに対して動員を命じられました。ついては、長浜町の住人のなかで少分であっても在方で耕作を行なっている者については、今度の御普請への動員に応じるように、堅く三成が仰っています。もとより(秀吉が長浜町人に対する夫役【ぶやく】)を御免じなさったことは、三成もよくご存知のことですが、今度の普請は短期間のことでもあり、例外なく誰であっても雇い出すようにとのことです。柏原方の申し分もありますので、大義でしょうが、長浜町の御宿老衆のなかに二、三人ほど(佐和山への)御越しを願って、詳細について相談するのがよいと思います。そのために態々こうして申し入れます。
 なお、先日は長浜町の上使衆が伏見へ罷り上り、長浜が諸役御免許の地であることを秀吉に訴え出たことについて、三成(治部少輔)も少し立腹しているようですので、町から二、三人ほど御出でいただき、御釈明されたほうがよろしいでしょう。わたしに対し、長浜町のおのおのが気遣いしてくれたことは、柏原彦右衛門へ申し渡しておきます。以上」
 三成の公平性がよくわかる書状ですが、当時の三成の領地や佐和山城の総構について考察する上でも重要な史料であり、中野氏や太田氏の同書でこの書状に関して記されていることについては、改めて取り上げたいと思います。

 
 

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