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zoom RSS 石田三成の実像1836 「長浜城跡・城下町跡」現地見学会3 知善院・外堀・山内屋敷・天守跡

<<   作成日時 : 2017/01/31 12:38   >>

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 写真は長浜の知善院の表門を、22日の「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会の際に撮ったものです。長浜城の搦手(からめて)門を移築したと云われています。知善院自体は、浅井氏の小谷城から移した寺であり、長浜城の鬼門(北東)を守護する位置にありました。知善院の本堂の中には、大坂落城の時に持ち出された秀吉の木像が安置されていますが、今回は拝観しませんでした。
 現地見学会は、長浜領の境界を示す江戸時代の石碑(三ツ矢大神宮のところ)を見た後、西に進み(城下町の北限をたどる形で)、少し南下し、知善院にたどり着きました。そこで説明を受けた後、知善院をさらに南下し、西に進んで北国街道に入り、そこを南下して、「大手門通り」の商店街のアーケードの西端にたどり着きました。城下町の北側をぐるりと回った形になります。
 「大手門通り」(「大手通」)をさらに少し西に進むと、長浜城の外外堀跡の遺構である水路があります。当時はもっと広く、西側の道路よりさらに先まで堀がありました。外外堀というのは、その内側にもう一つ内外堀があったからですが、今は埋め立てられてありません。「大手門通り」をさらに西に進み、内外堀があったところを通り、豊国神社のところに出ました。この神社には、豊臣秀吉だけでなく、加藤清正、木村重成も祀られています。
 さらに西に進むと、JR北陸本線にぶつかりますが、地下道を通って、北陸本線の西側に出ました。北陸本線のすぐ西側にマンションがいくつか建っていますが、そのあたりに秀吉の家臣団の屋敷がありました。石田三成の屋敷もこのあたりにあったものと思われますが、具体的にどこにあったのかはわかっていません。ただ、山内一豊の屋敷跡は、「伊右衛門屋敷」という地名が江戸時代初期の「検地帳」に残っている(伊右衛門は一豊の通称)ことから、そこにあったものと推定され、マンションの一角に、山内一豊・千代夫妻を思わせるモニュメントが建っています。
 そこから豊公園に入り(入口に内堀跡の碑が建っています)、石垣検出地点(地面に1から9までの番号が付いており、それを順番にたどっていくと石垣がどう配置されていたかがわかるようになっています。敵に攻められた時に、敵を攻撃できるように曲がった形になっています)、太閤井跡碑(今は琵琶湖の中にある井戸跡ですが、当時は湖岸線がずっと先にあり、そこも城内でした。もっとも、その井戸が秀吉時代のものであるかどうかはわからないそうです)、長浜城の天守跡(豊臣秀吉像が建っており、長浜城歴史博物館の西側にあります)と回りました。長浜城の人柱伝説にも触れられていましたが、長浜城も含めて人柱が確認できた城は一つもないという話もありました。
  

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