関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1810 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」15 公儀を使用したのは三人

<<   作成日時 : 2017/01/05 19:45   >>

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  白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、阿部哲人氏の指摘などをもとにして、「西国を二大老・四奉行がまず掌握して、東国は大老の上杉景勝が掌握する、という豊臣公儀(石田・毛利連合政権)のダイナミックな全国支配のスキームを読み取ることができる」と指摘されています。
 またやはり阿部氏の指摘に基づいて、「7月17日付長束正家・増田長盛・前田玄以連署状」と「内府ちかひの条々」が、「西国の諸大名だけでなく、東国の諸大名に対しても出されたことになり、石田・毛利連合政権が政権成立の当初から豊臣公儀として全国規模で支配権を確立しようとしていたことがわかる」とも指摘されています。
 こういう観点は、家康にとっては都合の悪いことであり、江戸時代は三成らは謀反人扱いされ、三成たちが豊臣公儀を形成していたということは無視されました。まして、豊臣家が滅亡してからは、豊臣公儀というもの自体が、「内府ちかひの条々」から関ヶ原の戦いの時まで存在したことすら抹殺されたものと思われます。
 白峰氏の同論考で、「石田・毛利連合政権の構成メンバーで、その書状において『公儀』文言を使用したのは二大老の毛利輝元・宇喜多秀家と四奉行の一人である石田三成だけであったことは、この3人が政権の中心人物であったことを示している。なお、これらの用例では、いずれも『公儀』の文言の上を一字分空けて闕字にしている」と指摘されています。
 やはり、ここからは、三成が二大老と並んで、連合政権でリーダー的な役割を果たしていたことがわかります。
 白峰氏の同論考のまとめとして、次のように記されています。
 「これまでの通説では、大坂三奉行が『内府ちかひの条々』を出して家康を弾劾した7月17日以降、9月15日の関ヶ原の戦いまでの政権の存在やその実態を明確に規定してこなかったが、本稿で明らかにしたように、この時期の政権を豊臣秀頼を直接推戴した石田・毛利連合政権と規定し、秀吉死後、恣意的な政治行動をおこなっていた家康を政権から排除(放逐)して、より純化された完成形の豊臣公儀を構築し得たことにその歴史的意義を見いだすことができる」と。
 秀吉死後、特に三成失脚後は、家康の専横が目立つようになったという指摘は、今までも関ヶ原関連本にしばしば記されてきましたが、「内府ちかひの条々」が出されてからの、石田・毛利連合政権(こういう言い方も白峰氏独自の見解です)の実態については、あまり明らかにされてきませんでした。時期的に短く、またこの時期はとかく徳川史観に基づいて語られ、関ヶ原の戦いまで家康の思惑通り進んだという見方が一般的でしたから、三成方が新たな豊臣公儀を構築したという捉え方には目を瞠るものがあり、捉え方を変える必要性を感じました。 
 

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