関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1813 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」3

<<   作成日時 : 2017/01/08 10:51   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、昨日付の拙ブログで記したように、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、石田三成と浅野長政の対立があったという記述があることが指摘されています。石田三成派については、白峰氏の同論考で、次のように記されています。
 「石田三成派は、小西行長が有力なキリシタン大名であり、有馬晴信、大村喜前、小早川秀包もキリシタン大名であったことや、文禄の役では、有馬晴信、大村喜前は小西行長(一番隊)の指揮下にあったことも同じ派になった要因として考えられる。石田三成は、小西行長の『特別の親友』であったことから、石田三成派は、石田三成・小西行長派と言い換えてもよいであろう」と。
 三成がキリシタンに理解を示していたことは、小西行長との関係だけでなく、二十六聖人殉教の際、犠牲者をできるだけ少なくしていることや、京都に潜居していたオルガンチノに対して長崎へ退くように勧めたり(「堺市史」)しています。
 しかし、その割に、拙ブログでも取り上げているように、ルイス・フロイスの「日本史」では、堺奉行としてキリシタンを弾圧したことが記されており、このあたりはフロイスの記述が正しいのかどうか、十分検討の余地があります。
 寺沢広高が、三成・行長派に属していたことについては、「1599年度日本年報」に、「小西行長は寺沢広高と『親しくしていた』」という記述があることが挙げられていますが、「後に寺沢広高は家康に近い立場になり、石田三成派からは離れることになる」と指摘されています。
寺沢広高が行長と「親しくしていた」のは、一時キリシタンになっていたことと関係していると思われます。寺沢は二十六聖人殉教の際、棄教していますし、秀吉死後は家康に接近しました。寺沢は唐津藩主になっていますが、このことについては一昨年に唐津城を訪ねた直後の拙ブログ記事で取り上げたことがあります。
 浅野長政が小西行長と「大いに不仲」だったと、「1599年度日本年報」に記載されていることが白峰氏の同論考で示されていますが、そのことが浅野長政派が行長と「敵対する要因の一つであったと考えられる」と指摘されています。
 また「加藤清正は小西行長の『不倶戴天の敵』であったことから、浅野長政派に入っていると考えられる」と記されています。二人が「不倶戴天の敵」だったとするのは通説になっていますが、そうではないという見解を鳥津亮二氏は示されています。宣教師関係の書物に「敵」と記されているのは、行長がキリシタンであり、清正は異教徒だったという点が大きいのではないかと思っています。 
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1813 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」3 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる