関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1846 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」12

<<   作成日時 : 2017/02/11 00:03   >>

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白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、反家康勢力の連携についての「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。
 「彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背き犯した数ヵ条の罪状をつきつけた」という記述の中で、「数ヵ条の罪状をつきつけた」という部分について、白峰氏の同論考では「7月17日に大坂三奉行が出して家康を弾劾した『内府ちかひの条々』を指す」と指摘されています。
 また「幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背」いたという点に関しては、「この時点での主君は豊臣秀頼であり、家康はその敵になったことが諸大名に対して周知されたのである。よってマクロな意味では、豊臣公儀の主君豊臣秀頼VS豊臣公儀から排除された豊臣公儀の敵である家康、という対立軸になる」と指摘されています。
 これは、「内府ちかひの条々」が出されたことによって、家康は公儀性を剥奪されたとする白峰氏の見解につながる内容です。
 「日本諸国記」には、三成と小西行長にとって「太閤様の若君(秀頼)が、内府様のために世襲封土を剥奪され、栄誉や身分の点で毀損を被ることに我慢がならなかった」という記述があり、この点について、白峰氏の同論考には、「家康の政治的野心に対する危機感を石田三成・小西行長が、諸大名と共有することによって、反家康同盟を結成」したと指摘されています。
 またこの目的の「成否はかかってかの策略にあったが、日本の政治史においてこの同盟くらい入念に仕組まれたものはなかった。これによって大いなる名声と栄誉が、殊にかの二人の領主に帰したのであった」という「日本諸国記」の記述に関しては、「反家康同盟が以前から周到に準備されたものであることがわかる」、「当初は反家康同盟の目的が達成され、家康打倒が成功する可能性が高かったことを示している」と指摘されています。後者の傍証として、小西行長が「戦う少し前には、彼は勝利を掌中に収めるかに見えた」という記述、反家康方の10万人を超える軍勢が大坂城に集結したこと、伏見城を攻略した後、「三成などを天下に完全に掌握したことが明記されている」などの点が挙げられています。「反家康同盟が以前から周到に準備されたものである」という記述については、拙ブログ記事で前述したように、「日本諸国記」は、そういう見方が示されているものの、それが事実であったかどうかについては確認されていませんし,議論の分かれるところです。

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