関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1847 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」12

<<   作成日時 : 2017/02/12 19:04   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前後の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。
 「日本諸国記」には、福島正則について「この君候は内府様側の人であるから、その領内でもっとも戦さが激しくなるに違いなかった」という記述があることから、白峰氏の同論考で、「福島正則が家康方であるため、その領国である尾張国内での激戦が予想されていた」とあり、「石田三成・毛利輝元方と家康方の両軍事勢力が軍事的に衝突する場所は、最初から関ヶ原と決められていたわけではない」と指摘されています。
 この点について、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章の中で、「三成は尾張と三河(ともに愛知県)の国境あたりで決戦するという戦略を立てていたことが、真田昌幸宛の書状によってわかる。しかし、8月14日に福島正則の居城である清洲城に東軍が入ったことによって、その戦略は変更することを余儀なくされ、三成は大垣城と岐阜城を結ぶ線あたりで防御しようとした」と記しました。
 この昌幸宛書状は8月6日付のものであり、岐阜城の城主は織田秀信です。三成が秀信と親しい関係だったことは中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)で詳しく記されています。
 「日本諸国記」には、織田秀信が三成・輝元側に就いた時のことは次のように記されています。
 「我らがかの地にいた過ぐる日に、彼(中納言殿)が(太閤様)の若君・秀頼様に味方することを宣言すると、(中略)彼が(若君に)、美濃国全領を授けられたことの感謝の意を表すために訪ねて行くと、秀頼様は、彼の父君が有していた四万クルザードに相当する美濃と尾張のすべての扶持を与え(後略)」などと。
 もっとも、白峰氏は「四万クルザード」について、「四十万クルザード」の誤記の可能性が高いと指摘されています。「四十万クルザード」は57万1430石に相当すると。
 こういう「日本諸国記」の記述から、白峰氏の同論考では、「織田秀信が石田三成や毛利輝元に味方するのではなく、豊臣秀頼に味方すると記されているので、家康方の軍勢と対戦する軍勢のトップは秀頼であることがわかる」こと、「秀頼に味方したことにより『美濃国全領』が織田秀信に与えられたことがわか」り、「この時点で、秀頼が知行宛行権を行使したという意味で重要である」こと、「福島正則は秀頼から改易にされた、ということを意味する」ことなどが指摘されています。実際に福島正則が改易されたことが事実かどうかは、別の史料による裏付けが必要だと思われますが。

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