関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1848 中野等氏「石田三成伝」10天正14年5月16日付直江兼続宛、25日付連署状

<<   作成日時 : 2017/02/13 10:19   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正14年(1586)5月16日付の直江兼続宛木村吉清・石田三成・増田長盛連署状が取り上げられ、現代語訳も掲載されて、その書状の内容について次のようにまとめられています。
 すなわち、「三成らは秀吉と家康が縁者となったことを踏まえ、上杉景勝に対して早急な上洛を促している。家康との和議がなった今、東国もほどなく秀吉の支配下に入るであろうから、諸勢力の領域が確定する以前に上洛するのが得策だというのである」と。
 秀吉の妹の旭(朝日)姫が家康に輿入れしたのは5月14日ですから、その2日後の書状です。旭姫の輿入れについては、「家忠日記」の5月14日条に「御こし浜松ニ入候」という記述があることが、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」【藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』[思文閣出版]所載】に掲載されています。
 秀吉と家康の和睦については、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)の中で、「家康の方はかつての同盟者がつぎつぎと切り崩されていっただけではなく、内部的にも困難な問題に直面して」おり、天正13年「8月になって上田城に大軍を派遣したが、敗北を喫し」たこと、11月に「岡崎城代石川数正が妻子とともに出奔し、秀吉の許に身を寄せるという事件が起こった」こと、「秀吉は家康の『成敗』を標榜しつつも、実際には懐柔することで、臣従化しを図ろうとした」ことが記されています。
 旭姫の輿入れは秀吉の懐柔策の一環だったわけですが、家康も多難な状況であったことがわかり、家康側も秀吉に対して和睦、臣従化の道を選ばざるをえなかったと云えます。
 中野氏の同書では、「5月25日付で秀吉は東国の諸勢力に朱印状を発給し、その書き留めに従って石田三成と増田長盛とが連署の副状を発」しますが、このうち、宇都宮家重臣の塩谷義綱宛の秀吉朱印状と石田三成・増田長盛連署状が取り上げられ、現代語訳が掲載されていますが、次のようなことが指摘されています。
 「北関東での具体的な交渉は、三成と増田長盛に委ねられたのであろう。副状の発給はその証左と考えたい。ちなみに、三成はこの頃在京しておらず、上杉景勝一行の上洛を迎えるため北陸道にあった。連署状自体は正文とみられるが、実際には『判紙』を利用して増田長盛が単独で発給したものであろう」と。
 三成が「5月28日には加賀森本で景勝主従を出迎えている」ことも中野氏の同書には記されています。三成が上杉氏の取次だけでなく、北関東の武将たちの取次を務めるなど多方面で活躍していることがうかがえます。
 「こうこ」両遺訓゛こがつ

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