関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1849 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」13

<<   作成日時 : 2017/02/14 21:32   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、織田秀信が三成・輝元側に就いた時のことが、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に記され、その記述が取り上げられていることは前述しましたが、「我らがかの地にいた過ぐる日に」という表現があり、これについて、白峰氏の同論考で次のように考察されています。
 「宣教師が美濃国内にいた時期」について、「織田秀信が豊臣秀頼に味方するということを宣言した」ということから、「『内府ちかひの条々』が出されたのは7月17日であるから、それ以降の時期であることは明らかである」と。
 また「日本諸国記」の中で、「(石田)治部少輔(三成)の軍勢と遭遇の折」と記されているほか、『別の地で私が出会った宰相殿の(中略)彼らはそこでおよそ一万二千人くらいが城塞を修復し、出陣の準備をしていた』と記されている」ことから、次のような指摘がされています。
 「宣教師は石田三成の軍勢と遭遇し、別の場所で毛利秀元(『宰相殿』)の軍勢とも行き合ったことがわかる。この宣教師は、美濃国内にいたか、或いは、美濃国から移動中だった可能性が高く、時期としては、石田三成方の軍勢が家康方軍勢と直接対戦する前の時期であることは明らかなので8月上旬〜中旬頃と考えられる」と。
 三成が居城の佐和山城を出て大垣城に入ったのは8月11日のことです。
また「日本諸国記」に、毛利秀元の軍勢が「およそ一万二千人くらい」と記されていることについて、白峰氏の同論考では次のように指摘されています。
 「石田三成の人数書立て(8月5日頃の時点における石田・毛利方の諸将の配置と動員人数を記した史料)では毛利秀就(秀元ヵ)の軍勢の人数を1万人としていて数字的には近似しているので、『およそ一万二千人くらい』という記載は信憑性が高いことを示している。そして、毛利秀元の軍勢およそ1万2000人くらいが修復していた城塞というのは、その人数からすると大規模な修復になるので、松尾山の可能性も考えられる」と。
 松尾山については、毛利輝元に入ってもらおうと準備をしていたにもかかわらず、9月14日に動きの怪しい小早川秀秋が三成方の伊藤盛正を追い出して陣取ったという経緯があります。秀元が松尾山の修復にかかわっていた可能性もあるとする見解には興味が惹かれました。
 
 

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