関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1850 中野等氏「石田三成伝」11 多賀谷重経の取次

<<   作成日時 : 2017/02/15 21:59   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正14年12月3日付の多賀谷重経宛の秀吉書状の内容が記されていますが、次のようなものです。
 「石田三成に対する書状を披見した。関東・奥羽の惣無事のことをこのたび家康に指示したので、異議を差し挟むことのないように。もしこれに背く者があれば討伐する。なお、石田三成も申述するであろう」と。
 この書状について、中野氏の同書では次のように解説されています。
 「冒頭の文言から、三成が多賀谷重経の書状を取り次いでいたことが理解される。恐らく、結城晴朝についても同様であろう。これは結城や多賀谷も佐竹と同様に常陸国を本拠とすることから、佐竹家の奏者をつとめる三成が、これらについても奏者として機能していたものと考えられる。ちなみに、多賀谷重経の嫡子右近大夫は、はじめ実名を『光経[みつつね]』と称していたが、のちに『三経[みつつね]』と改めている。これは三成の一字を与えられたものと言われる」と。
 このうち、「家康に指示した」ということについては、11月4日付の上杉景勝宛の秀吉書状の中で、「関東のことは家康に任せ、真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌らを家康に属させたとし、とくに真田は景勝の斡旋もあるので赦免するという」ことが記されていると、中野氏の同書に記されています。家康が上洛し、大坂で秀吉に対面し、臣従したのはその年の10月のことです。真田が家康に属するように秀吉が命じたことについては、大河ドラマ「真田丸」でも描かれていました。
 多賀谷重経については、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)に、次のようなことが記されています。
 「多賀谷重経は、三成の斡旋宜しく、諸将の面前で、その武勇を称えられ、秀吉から脇差を贈られた。重経は大いに面目をほどこし、三成の徳を慕い、その嗣子の名前に三成の一字を貰い受け、多賀谷三経とした。その後も三成に従い、武蔵・忍城攻めに参戦し、下妻の所領を安堵されている」と。
 多賀谷重経が関ヶ原の戦いで上杉景勝に呼応して参戦したため、戦後、武蔵・府中に蟄居を命じられ、晩年は、四男の茂光を頼って彦根で過ごしたことも、白川氏の同書で述べられています。
 また三経のその後についても、白川氏の同書に次のように記されています。
 「三経は三成の養子になり、慶長3年に三成から結城秀康に託され、その家臣になったとの説と、佐竹義宣の弟・宣家を嗣子としたため、父と袂を分かち結城秀康に仕えたと言われている」と。
この宣家に嫁いだのが真田信繁と豊臣秀次との間に生まれたお田の方であり、宣家は後に亀田藩主となり、岩城宣隆と名を改めています。
 
 

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