関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1851 中野等氏「石田三成伝」12 九州攻めの際の役割

<<   作成日時 : 2017/02/16 10:12   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、九州攻めに関して、天正15年(1587)2月17日付の筑前国上座郡の土豪の宝珠山隆倍に宛てた三成書状が取り上げられ、その現代語訳が掲載されています。
 「仰っしゃるように、これまで書状をやりとりすることはございませんでした(ので、はじめての通信となります)。さて、今度黒田孝高(勘解由次官)殿があなたに対し、特別に知行などを充行われるようにと言上されました。早速(秀吉の)お耳にいれ、諒承されました。今後は黒田孝高の意向を疎かにせず、忠功を尽くされるべきことを、私(三成)が告げ知らせるようにと、(秀吉が)お命じになりました(ので、書状を発しています)。なお、今後のやりとりを期待しますので、細々とは書きません」と。
 この書状について、次のような解説がされています。
 「天正14年の10月には、毛利勢が豊前に上陸していた。黒田孝高もこれとともにあって、北部九州での戦闘や調略に従っていた。宝珠山隆倍も黒田孝高の手に属することとなったが、その前提として、秀吉自身による知行の保証を要求したのであろう。黒田孝高は、宝珠山氏に対する知行保障を秀吉に言上し、これを容認した秀吉が、三成への書状発給を命じたのである。三成は、九州で活動する諸将と秀吉との間を、取り次ぐ立場にあったことがわかる」と。
 この三成書状前後の秀吉の居所ですが、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)に、1月9日から京都におり、2月「8日京都発大津へ」、「13日大坂着」、「28日大坂在」と記されています。三成は秀吉のそばにいたと思われますから、三成が上記の書状を書いたのは、大坂であったと考えられます。
 秀吉が九州攻めのため、大坂を経ったのは3月1日ですが、中野氏の同書には「三成もこれに従ったと考えられる」と指摘されています。三成の役割については、「『至九州御動座次第』には、石田治部少輔の名が見えないことから、三成は軍勢を率いて従軍したのではなく、秀吉に直勤する『御小姓衆』に属していたものであろう」と指摘されています。
 もっとも、九州攻めの際に三成が果たした役割については、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)をはじめとする三成関係の諸書で、長束正家・大谷吉継と共に兵站奉行を務めたことが記されています。白川氏の同書には、秀吉が「30万人の年間兵糧と、2万頭の馬の飼料の供出を命じ」、「小西隆佐(弥九郎)・建部長政(入道寿徳)・吉田清右衛門・宮本豊盛を」「派遣し、諸国の蔵入方より兵糧等を兵庫・尼崎・赤間関(下関)に集荷させ」、三成らは「これを監督して、適正に各軍団に配分している」と記されています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1851 中野等氏「石田三成伝」12 九州攻めの際の役割 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる