関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1838 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」9

<<   作成日時 : 2017/02/02 00:06   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介され、それについての考察が加えられていることを拙ブログで取り上げました。
 その「日本諸国記」の中に、家康が「(上杉)景勝宛に、貴殿がただちに上洛しないなら、自ら出陣し、貴殿を反徒として懲罰するであろう、との伝言を送った」という記述がありますが、このことに関して、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)に次のように記されています。
 「家康は3月10日に使者として伊奈昭綱を景勝のもとに派遣し、起請文を書き、すみやかに上洛すべきことを命じた。他方で、家康の意向を受けて相国寺の西笑承兌(せいしょうじょうたい)が、4月1日付けで上杉家の執政直江兼続宛に書状を送り、起請文をもって弁明し、上洛して陳謝するよう勧告した」と。
 「日本諸国記」の記述は、おおむね日本側の史料と合致することがわかります。違うのは、前田利長も反家康の首謀者として記されていることで、利長は前年に家康の暗殺を謀ったとされているので、そのことが影響しているかもしれません。しかし、利長は母のまつ(芳春院)を家康に人質として差し出して以来、家康に屈服し、関ヶ原の戦いでも家康側として出陣しています。しかし、弟の利政は三成方の立場を貫き、出兵を拒否したため、戦後所領を没収されました。イエズス会側でそういう誤解もあったのかもしれません。
 「日本諸国記」には、「景勝が書状で内府様など物の数ではないとの態度を示して内府様を挑発し始めた」という記述がありますが、このことに関連して、本多氏の同書には、次のように記されています。
 「兼続はいわゆる『直江状』とよばれる4月14日付けの返書で、16ヵ条にわたって嫌疑などについて弁明・反論し、讒人(ざんにん)を非難するとともに、家康の方こそ上洛できないようにしむけていると断じたのである」と。
 直江状については、原本が残っていないため、その存在を疑われることもありましたが、実際に家康は兼続の書状を見て怒り、それが上杉攻めにつながったという事実などがあるので、直江状は存在したということが一般的に認められているように思えます。
 直江状については、拙ブログ記事でも以前取り上げたことがありますが、桐野作人氏の「検証 『直江状』の真偽 名門上杉氏の意気を示した本物」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】)の中で詳しく論じられています。

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