関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1853 記事「海北友松の自筆受領書発見」1 友松と三成の接点 

<<   作成日時 : 2017/02/20 10:41   >>

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 2月17日付の朝日新聞夕刊の文化欄に「海北友松(かいほうゆうしょう)の自筆受領書発見」と題する記事が掲載されていました。妙心寺で発見され、「同寺に納めた屏風の制作料についての書状で」、「受領書には友松の自筆で『お気遣いいただき、屏風を制作した報酬として銀子(ぎんす)一貫目並びに銀子二十枚という過分な額を確かに受領しました』なとど記され、落款・印象もあった」と書かれています。
 この「受領書の内容は1992年発行の美術誌『國華(こっか)』(朝日新聞社)に紹介されていたが、所在は不明だった。同誌の紹介者が当時の米価をもとに換算した画料は約3千円とされていたが、現在の米価で換算すると約236万円に相当するという」とも記されていますが、これは京都国立博物館の山本英男氏の見解であることも明らかにされています。
 「妙心寺は、友松最晩年の活躍の場。傑作『花卉(かき)図屏風』『寒山拾得・三酸図屏風』など重要文化財の屏風3件を所蔵しており、これらの制作への報酬とみられるが、屏風1双分の画料なのか、3双まとめての価格なのかは不明だ」と記されています。
 海北友松と三成とは密接な関係にありました。そのことについては、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、詳しく記されています。
 「三成が筑前の直轄領代官として下った時に同行している」こと、出身が「近江坂田郡であり、その父・善右衛門尉綱親は小谷城・浅井の家臣であった」こと、「友松の子・海北友竹の画像賛によると、海北家は近江・宇多源氏の支流とされていることから、三成の妻・宇多氏との関係が推察される」ことなど。
  「三成が筑前の直轄領代官」となったのは、小早川秀秋が筑前から越前北庄に転封になったためですが、秀吉が三成に筑前領を与えるつもりだったのを、三成がそれを辞退したという経緯があります。自分が九州に赴けば、秀吉のそばにいることができなくなるという理由でした。
 三成が代官として赴任した月日について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、慶長3年(1598)「5月29日に京を発し、筑前に下向する。6月17日頃に博多入りした三成は、26日までここに留まる」と記されています。
 妙心寺の塔頭寿聖院は、三成の父である正継が建てた寺ですが、関ヶ原の戦いの後、三成の長男の重家は出家して寿聖院に入り、後に住職になりました。晩年の友松と寿聖院の僧侶となった重家(宗亨)とは接点があったのではないでしょうか。
 
 

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