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zoom RSS 石田三成の実像1854 記事「海北友松の自筆受領書発見」2 友松と春日局と三成の子孫との関係 

<<   作成日時 : 2017/02/21 21:13   >>

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 2月17日付の朝日新聞夕刊の文化欄に掲載された「海北友松(かいほうゆうしょう)の自筆受領書発見」と題する記事ですが、4月11日から京都国立博物館で始まる「海北友松展」の案内も兼ねています。この受領書も展示されます。三成と関わりの深い人物だけに、是非とも行きたいと思っています。
 友松の事績について、同記事には次のように記されています。
 「友松は近江・浅井家の重臣の家に生まれ、狩野派に学んだ。建仁寺の大方丈の障壁画などを手がけ、寺の縦2メートルの大画面に巨龍2頭をダイナミックに描いた雲龍図(国重要文化財)などで知られる」と。
 三成関係の著作や小説・ドラマでは、三成の一族が浅井家の家臣だったと言うことがよく書かれていますが、中井俊一郎氏は石田家は浅井家ではなかったという見解を示されています。
 中井氏のブログ「石田三成と戦国史に関するblog」には、このことに関して次のように記されています。
 「石田家が浅井の家臣であったという史料はありません。浅井の前の京極氏の家臣には、石田姓のものがおり、たぶん三成の一族と関係はあるだろうと思えますが、浅井家中にはいません。石田一族が、戦いの折に浅井氏に参陣を求められた可能性は否定できませんが、織田の進駐に伴い、早々に浅井を見限って秀吉についたのは確かなことで、いずれにせよ主従関係というものは浅井との間になかったと考えられます」 と。
 また中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、これに関連して次のようなことが記されています。
 「浅井氏とのつながりが薄い石田氏を、この地に駐屯した秀吉が頼りにしたと見るのは当然だろう。自身も非凡な人材であった正継が、秀吉を一族を託すに足る人物と思ったかもしれない」と。
 すなわち、石田氏と浅井氏との関係が深ければ、秀吉も三成の父の正継や三成を取り立てなかったし、正継も秀吉に頼りにしなかったというわけです。
 私もかつては淀殿と三成の関係を、茶々が三成にとってかつての主人筋の娘だったという捉え方をしていましたが、その見解を改めさせられました。
 ところで、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)には、海北友松と春日局(お福)の関係が指摘されています。すなわち、「お福の父・斎藤蔵之介利三と友松は茶の湯を通じて親交が厚かったとされている」こと、本能寺の変の後「友松は斎藤利三の遺族を手厚く援助したと伝えられる」こと、友松の死後、「友松の妻・妙貞と息子の忠左衛門は、春日局の推挙によって三代将軍・家光のもとに召し出され、『海北友雪』として幕府お抱え絵師とな」ったことなど。春日局の斡旋で、三成の孫娘が家光の側室(お振りの方)となり、千代姫を生み、千代姫が後に尾張徳川二代藩主・光友に嫁ぎ、三代藩主となる綱誠を生んでいることも、白川氏の同書に記されています。

 

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