関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1855 中野等氏「石田三成伝」13 九州攻めの際の役割3

<<   作成日時 : 2017/02/22 10:44   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正15年(1587)の九州攻めの際、「陣中見舞いをうけた三成は、この陣中から堺南北惣中に礼を述べ、戦況を報じている(大日本古文書『島津家文書』1196号)」と記されています。
 三成は天正16年まで堺奉行を務めていましたから、堺からの陣中見舞い、その礼状はその務めの一環と思われます。拙ブログでも前述したように、三成は博多商人の還住を進めていましたから、こういうことからすれば、三成は貿易港としての堺、博多の重要性を意識していたと思われますし、それは秀吉の意向でもあったはずです。
 島津義久が泰平寺で秀吉に降伏したのは5月8日のことですが、中野氏の同書には、「島津氏の降伏をうけ、三成は人質を催促する」と記されていますが、その典拠は「薩藩旧記雑録後編」の「新納忠元勲功記」です。
 「これ以後、三成は政権下で島津家との関係を担い、『指南』というかたちで島津家中との深い関わりをもつことになる」とも記されています。
 「取次」が「指南」の役割を果たしたことについては、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の「豊臣政権の『取次』と『指南』」の中で、詳しく論じられています。島津氏の「取次」としての三成については、次のようなことが記されています。
 「三成は、島津氏が秀吉から命じられる役儀を満足に果たせないことは『取次』である自分の面目を失わせることだとして、直接『国の置目あつかひの事』に口を出さざるをえない、と内々に告げています」
 「『取次』の三成は、島津氏の大名権力の強化を通して、豊臣政権下の大名として秀吉が要求する軍役を果たさせるための改革者の役割を果たしたのです」と。
 もっとも、島津領検地については、山本氏の同書で、「朝鮮出兵に際し、軍勢を調達できず、遅陣し」、「配下の梅北国兼が出兵に反対して一揆を起こす、という事件も起こ」り、「このままでは、島津家の滅亡が近いと危機感を感じた義弘は、島津領に検地を実施してくれるように三成に依頼します」と記されています。
 三成と島津氏(特に義弘)は持ちつ持たれつの関係だったわけですが、三成も取次役、指南役として島津氏の大名権力を強化するためには相当苦労したものと思われます。それはむろん、秀吉の意向を受けてのものであり、それを推し進めるのに島津氏に対して強い態度に出たこともあったでしょう。
 しかし、そのために島津氏の権力は確実に高まりましたし、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記したように、検地によって石高が24万石から55万9500石に飛躍的に増えました。

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