関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1856 中野等氏「石田三成伝」14 九州攻めの際の役割4

<<   作成日時 : 2017/02/23 21:29   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正15(1587)5月8日に島津義久が秀吉に降伏した後も、「いまだ不穏な動きをみせる島津歳久(義久三弟)を抑えるため、三成は19日に島津家家老の伊集院忠棟(九州平定ののち剃髪して『幸侃』【こうかん】と号す)とともに祁答院(けどういん)に派遣される。この軍令は、伊集院右衛門大夫・石田治部少輔・木食上人(応其【おうご】)充ての秀吉朱印状というかたちで発せられた」と記されています。
 伊集院忠棟と三成の関係について、中野氏の同書では、「こののち忠棟(幸侃)は、秀吉・三成の支持を得ることでさらに権勢を強め、特に島津家当主を圧倒するような存在感をもつこととなる」と記されています。
 伊集院が「権勢を強め」たということについては、その最たるものが島津領検地の結果、伊集院が得た石高でした。このことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中で、「義久、義弘ともに十万石、伊集院忠棟は八万石が与えられ」、「結果的に伊集院が厚遇された」と記しました。
 この点については、中野氏の同書でも、島津義弘充ての検地の目録が掲載され、「『大名権力』を当主一人に収斂させず、義弘を義久に並列させることで、いわば分節化させ、また三成と親しく政権に近い存在である伊集院幸侃を義久や義弘に準じるかたちで厚遇している」と指摘されています。
 一方、木食上人については、「高野山の僧であり、秀吉の焼き討ちから高野山を救った人物として知られる。秀吉に篤く信頼された応其は秀吉本隊の九州下向に先立って九州に入り、島津側に対して和睦を斡旋していた。その後は秀長の陣中にあったようだが、この時期には秀吉への近侍が認められる。木食応其は、三成らとともに祁答院へ向かったのか否かは判然としないが、同じく5月19日付で島津義久充てに書状を発し、島津家はすみやかに秀吉の誤解をとき、徹底した恭順の態度を示すように、と厳しく諭している」と記されています。
 木食上人と三成との関係の深さについては、「三成伝説」でも記しました。すなわち、紀州攻めの際、「木食上人が間に立って三成たちと相談の末、高野山が降伏を申し出て、滅亡を免れて以来の関係だった」こと、「島津攻めを行った際、和睦に力を注いでいる」こと、「同年島津義久が初めて上洛した際、堺まで案内役を務めたのは、木食上人だったが、三成も下関で義久を迎え、堺でも多くの小船を出して、義久の船に漕ぎ寄せ歓待している」こと、「関ヶ原の戦いの際には、京極高次の籠る大津城・富田信高の籠る安濃津城(あのつじょう)の開城交渉に当たっている」、「関ヶ原の戦いの後、佐和山城にいた三成の三男の左吉(さきち)は、津田清幽(つだきよふか)に伴われて城を脱出し、清幽の取りなしによって命を救われ、木食上人に預けられて出家している」ことなど。
 これらのことは、白川亨氏の先行研究に基づいて記しました(「石田三成の生涯」【新人物往来社】)。

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