中野等氏の「石田三成伝」(サンライズ出版)の中で記されている、九州攻めの際の三成の行動の続きです。 「三成はその後も伊集院忠棟とともに大口進軍の指揮をとる。24日には曽木(そぎ)に至り、川内川の渡河地点あたりに達している」「また、三成は細川幽斎とともに、日向飫肥(おび)領を伊東氏へ引き渡すよう進めてきたが、島津側の対応が悪く、不快を感じている」「さらに、三成は安国寺恵瓊とともに大隅宮内(みやうち)に出張り、秀吉への敵対を続ける島津家中の北郷(ほんごう)時久(一雲)・忠虎父子と面談している」などと。 これらの典拠はいずれも「薩藩旧記雑録後編」です。 大口城は、新納忠元が城主であり、秀吉に抵抗を続けていましたが、三成は伊集院忠棟ともに説得に赴き、開城させました。そのことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記しましたし、山元泰4生氏の小説「新納忠元」(学陽書房・人物文庫)でも、三成と忠元との対面する場面の描き方がなかなか印象的であり、以前、拙ブログでもその場面は取り上げました。 その後の三成の動きですが、中野氏の同書には、博多近郊の箱崎にいる秀吉のもとに行き、それに従っていたと記されています。 秀吉は箱崎で九州の国分けを実施すると共に、三成の妻の伯父である尾藤知宣を改易処分にします。このことについて、中野氏の同書では、次のように記されています。 「九州の陣中で失態を犯した尾藤知宣は改易され、讃岐には生駒親正が入る。これまで姻戚として三成を支えてきた尾藤知宣は完全に失領し、浪牢を余儀なくされた。類縁の難を避けるためか、知宣の弟宇多頼忠(三成正室のの実父)の子河内守頼次(実名は『頼重』とも)は、三成の父隠岐守正継の養子となり、以後は『石田刑部少輔』と称することになる」と。 尾藤知宣がしたことについては、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。 「秀吉は高城攻撃の殿軍(しんがり)を命ずるに際して(尾藤に)訓戒を与え、『如何なる事が有ろうとも、殿軍としての役割を守る様』に厳命した。ところが先鋒の宮部継潤が島津の猛攻を受け、危機に晒された時も、尾藤左衛門尉(知宣)は秀吉の訓戒を守って、その救援に赴かず、殿軍としての任務を忠実に守った。そのことが後日、味方の危急を黙過したとして責任を追及された」と。 これが事実とすれば、理不尽な処分であり、三成にとってもこの伯父の処分には衝撃を受けたに違いありません。 |
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