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zoom RSS 石田三成の実像1840 中野等氏「石田三成伝」8 天正13年12月28日付の上杉景勝宛書状

<<   作成日時 : 2017/02/04 10:39   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正13年(1585)12月28日付の上杉景勝宛の三成書状が取り上げられています。秀吉書状の副状(そえじょう)であり、それまでの「三也」という署名ではなく、「三成」と記して実名を改めたと指摘されています。
 秀吉の書状は、「上杉景勝が歳暮の使者として、富永備中守を上洛(あるいは上坂)させ」たことに対する「返礼の直書(じきしょ)」であると記され、三成の書状も口語訳されています。
 この時期の情勢については、中野氏の同書で次のように記されています。
 「越後国内における新発田重家の抵抗は継続しており、また関東では、徳川家康と結んだ北条氏直が周囲への圧力を強めていた。さらに、家康が北条氏直に対して真田領の上州沼田割譲を約したため、真田昌幸がこれに反発して家康の傘下を離れて、上杉景勝に救援を求めていた」と。
 三成の書状については、その内容が次のように説明されています。
 「三成は上杉景勝に対し、東国のことについては御使者(富永備中守)に申し渡しているので説明をお受けくださるように、と述べている」「楽観を許さない東国の情勢を前に、三成は景勝に対して細かな対応策を講じた模様である」と。
 景勝が富永を上洛させる前の、景勝の動きですが、尾下成敏氏の「上杉景勝の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、「8月頃、越中へ出陣し境城へ入った。そして閏8月12日までに帰国している。これは秀吉の越中出兵に呼応した動きである(『上越別2』『上杉』)」と記されています。
 花ヶ前盛明氏の「直江兼続関連年表」(『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所収)には、「9月2日 石田三成、兼続に戦勝祝賀の礼状を出す」と記されています。
 この書状については、中野氏の同書では取り上げられていませんが、兼続と三成のつながりを示すものです。二人の書状でのやりとりは、拙ブログで前述したように、天正11年から始まっています。
 中野氏の同書には、翌天正14年1月18日付で上杉景勝に宛てて木村吉清・増田長盛・石田三成連署状が出されており、「この連署状は秀吉直書の副状」だということが記されています。その内容については記されていませんが、齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)には、「秀吉の東国出馬の直書」であり、「それに先立つ正月9日に秀吉は具体的な指示を上杉景勝に発して」おり、「先発隊は今月中、自身は2月10日頃に出陣。上杉景勝は2月中旬に信濃国に出馬するようにと」いう内容であることが明らかにされています。もっとも、この時の東国出馬は、その後中止されています。
 

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