関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1841 旅行記83 有馬温泉1 ねね像から太閤像へ 天正13年の湯治

<<   作成日時 : 2017/02/05 11:04   >>

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写真は有馬温泉の太閤橋の近くのゆけむり広場に建つ「茶人太閤像」を2月3日に撮ったものです。
 妻と有馬温泉に一泊してきました。妻は初めて、私は前に行ったことはありますが、三十数年ぶりのことで、その時は同僚たちと車で行き、一泊した後、次の日はコートを借りてテニスに興じたため、温泉街はほとんどぶらつかないままでした。今回は温泉街近辺を三時間半ほどかけてたっぷり散策してきました。
 泊まったのは、有馬ビューホテル(「太閤の湯」が併設されています)。3日、ホテルをチェックアウトした後、坂を下り、まず「ねね像」のところに行きました。そばの「ねね橋」を渡り、下の親水公園(流れているのは有馬川)に降り、太閤橋のところまで歩きました。そのそばに太閤像が建っており、太閤像とねね像は向き合う形に作られていますが、秀吉もねねも有馬に湯治に来ています。有馬温泉が知られるようになったのは、奈良時代に行基が温泉寺を開いてからですが、秀吉のおかげで、有馬温泉は一段と繁栄したと云えます。
 石田三成も秀吉のお供に有馬に来ていますが、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「『宇野主水日記』の天正13年(1585)9月14日条には、秀吉の有馬湯治に従った面々として『石田治部少輔、増田仁右衛門、大谷紀介ナド御ナリ』と見えており、ここでも三成が官途名で登場する」と記されています。
 「増田仁右衛門」は増田長盛、「大谷紀介」は、大谷吉継のことです。拙ブログ記事で前述したように、中野氏の同書には、三成が従五位下・治部少輔に叙任されたのは、他の「諸大夫」と同様、7月13日のことだと推定されています。
 秀吉が少なくとも18日までは、有馬に留まっていることは同日付の本願寺宛秀吉朱印状からわかります(藤井讓治氏の『豊臣秀吉の居所と行動』【天正10年6月以降】《藤井氏編[織豊期主要人物居所集成]{思文閣出版}》所載)。秀吉が従一位関白に叙任されたのは、同年7月11日のことです。
 秀吉は同年1月17日から2月3日までの間も有馬に滞在しています(藤井氏の同書)が、この時に三成も従っていたかはよくわかりませんが、この年の年頭の祝儀を本願寺から受けており、3月下旬から始まる秀吉の雑賀攻めにも従っている(中野氏の『石田三成の居所と行動』】《藤井氏編[織豊期主要人物居所集成]{思文閣出版}》所載))ことから見て、三成もこの時、秀吉に同行していた可能性は高いのではないでしょうか。
 ねねについては、藤田恒春氏の「北政所(高台院)の居所と行動」《藤井氏編[織豊期主要人物居所集成]{思文閣出版}所載》には、同年「2月5日、摂津有馬温泉の阿弥陀寺に薬師堂建立のため1万5000貫を寄進している(『善福寺文書』)」と記されています。ねねもこの時期、秀吉に有馬まで同行していたかは明らかではないものの、この寄進はねねが有馬に行っていたと関連しているのではないでしょうか。

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