関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1844 中野等氏「石田三成伝」9 堺奉行就任は西国仕置と関連

<<   作成日時 : 2017/02/09 19:00   >>

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 中野等氏の「石田三成」(吉川弘文館)の中で、三成が小西立佐とともに堺奉行に就任したのは、天正14年6月であり、その先行研究として、朝尾直弘氏の論考「織豊期の堺代官」が挙げられています。
 三成を堺奉行に任命した秀吉の意図として、中野氏の同書で次のように指摘されています。
 九州への出兵を前提とした「政権の西国仕置と密接に関連するとみるべきで」、「堺商人のもつ交易ルートは、そのまま前線の動きを支える兵站補給路として期待され、三成の奉行就任は、その掌握をもくろんだものであろう。また、これまで島津氏との交渉を担っていたのは、羽柴秀長のほか細川幽斎・千宗易らであったが、堺奉行に就いたのちには三成がこれに加わる」と。
 堺の環濠埋め立てもその一環として捉えられています。
 「家康を大坂に迎えたその最中、秀吉は堺の環濠を埋めるように命じ、11月に入るとみずから出馬して濠の埋め立てを進める」、「濠の半分程度は残されたようだが、西国仕置・九州出兵を前提として、堺が政治的・軍事的に制圧されたことは疑いない」と。
 このことから見ても、秀吉は貿易都市としての堺を重要視していたわけで、三成もそのこともよくわかっていたはずです。大河ドラマ「真田丸」では、三成は利休をはじめとする堺の力を削ごうと、堺の商人を大坂に移住させようとしていましたが、そういうことは考えられませんし、秀吉政権の中に堺を取り込みながらも堺の発展に尽くそうとしていたのが堺奉行としての三成の姿勢だったと思われます。
 もっとも、キリシタンは三成の堺奉行就任を歓迎していなかったと中野氏の同書で記され、その論拠として、ルイス・フロイスの「日本史」の記述が挙げられ、その部分が引用されています。このことについては、拙ブログ記事でも取り上げたことがあり、フロイスは三成だけでなく、異教徒のことを悪く言っているので、その点は割り引いて、「日本史」を読まなければいけないと指摘したことがあります。実際、三成はキリシタンに厳しいどころか、二十六聖人殉教事件の際の対応でもわかるように、犠牲者の数をなるべく少なくしようと努力しています。そのことは、中野氏の同書でも取り上げられ、次のように記されています。
 「堺奉行に就任した頃の三成は、イエズス会宣教師からも非難される立場にあったが、この段階になると、イエズス会の三成評は著しく好転している。たとえば、イエズス会宣教師であったクラッセの『日本西教史』などには、『諸師を愛顧する奉行治部少輔』といった表現で三成が登場する。三成には、フランシスコ会とイエズス会を峻別すべきであるとの意識もあったようだが、彼らの三成評が転換してゆく背景は詳らかにしえない」と。
 このあたりは、今後の研究課題だと云えます。

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